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  • 赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 ~室生寺第三回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替え...

    2008/08/23

    奈良(Nara)

  • これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 ~室生寺第二回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。 土門拳は雪の室生寺に執...

    2008/08/22

    奈良(Nara)

  • 土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 赤目滝で3時間、長谷寺で1時間歩き、この日の最終目的地である室生寺の手前までやって来た。 朝の6時半に家を出て、近鉄室生口大野駅に降り立ったのが15時40分。まだ全行程の3分の2を終えたに過ぎなかった。本当に限界を超えるのはこのあとだということに、このときの私はまだ気づいていない。 駅周辺にはそれなりに民家が集まっていて、ひなびているというふうでもない。街という...

    2008/08/21

    奈良(Nara)

  • 長谷寺には神と仏がいて、神仏グッズ自販機の夢が膨らむ ~長谷寺4回

     長谷寺本編の続きで、今回が長谷寺シリーズの最終回となる。昨日は本堂の前まで行ったから、今日はそこから再開しよう。 大迫力の本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)と、相の間、礼堂(らいどう)が一体となった巨大なもので、奈良東大寺の大仏殿に次いで日本で2番目に大きな木造建築だそうだ。ただ、実際目にするとそこまで大きいとは思えないのは、背の高さがあまり高くないからかもしれない。東大寺の大仏殿は高さも...

    2008/08/20

    奈良(Nara)

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赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 ~室生寺第三回

奈良(Nara)
室生寺3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。
 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替えていた。家に帰ってから体重を量ったら、一日足らずで5キロも減っていた。ボクサー並みの減量だ。今思い出してもこの日は過酷すぎた。
 帰りの時間も迫っていたから、石段の途中でおちおち休んでもいられない。重たい足取りで一歩ずつ登っていく。上までは果てしなく遠く感じた。
 帰りは楽かといえばそうじゃない。下りはヒザへの負担が大きいからかえってつらい。途中で完全にヒザがおかしくなった。
 もう、今はすっかり体重もヒザも元通りになった。超回復で前より丈夫になったことだろう。またそろそろロングウォークの時期が近づいている。

室生寺3-2

 歩いた時間はそれほど長くなったのかもしれない。せいぜい15分かそれくらいだったのだろう。ようやく何かの建物が見えてきた。ここが奥の院だろうか。まだ油断はできない。安心して続きがあると、ガクッときてしまうから。
 この懸造の建物は、位牌堂だ。間違いない、ここが奥の院だ。やれやれ、やっと着いたか。なんでこんな上に作ったんだ。いくら奥の院といったって、こんなに奥にすることはない。
 それはともかくとして、この位牌堂の懸造は見事なものだ。足場の枠組みがとても美しい。しばし見入る。
 ただ、この足が何かの理由でボキッといってしまったときは、建物ごと斜面を転がり落ちていくことになりそうだ。舞台の上にあまりたくさん人が乗ると危ないかもしれない。

室生寺3-3

 左が位牌堂で、右が御影堂(みえどう)。
 位牌堂は供養の儀式をするための堂で、御影堂は弘法大師空海を祀る堂となっている。太子堂とも呼ばれている。空海がこの寺に直接関わったのかどうかは分からない。真言密教の開祖ということで祀られているのだろう。これも鎌倉時代の建物で、重文指定になっている。
 御影堂は、ごえいどうとも読み、いわゆる開山堂だ。開山や宗祖を祀る堂ということでこう呼ばれる。
 ここ室生寺の御影堂には、弘法大師空海42歳の像が安置されている。

室生寺3-4

 奥の院まで行ったからといって、何がどうなるわけでもない。建物としては、上の二つがあるくらいで、特に見所とも言えない。位牌堂の懸造は一見の価値があることはあるにしても、行くか行かないかは意地の問題だ。
 上まで行っても夏場は木々が視界を遮って、見晴らしも悪い。葉の間からわずかに室生の町が見えるばかりだ。
 記念にぐるりと一周回って、ベンチを発見。嬉しくなって座ったのも束の間、いかん、時間がない、こうしちゃいられないというわけで、早々に奥の院をあとにした。奥の院での滞在時間は5分弱。あんなに苦労して登ったのに。

室生寺3-5

 本堂の近くに、北畠親房の墓とされる五輪塔(重文)がある。なんで室生寺に?
 北畠親房といえば、南北朝時代の公家で、後醍醐天皇死去ののち、南朝の指導的立場にあった人物だ。南朝の正当性を主張するために『神皇正統記』を書いたことでも知られている。
 その北畠親房の墓がどうして室生寺にあるのか、よく分かっていないらしい。1354年に奈良県吉野の賀名生(あのう)というところで死去している。現在の五條市で、南朝時代の首都の一つだったところだ。室生寺からはずいぶん離れている。生前にこの寺と関係があったのか、寺の誰かと知り合いだったのか。
 大正5年(1916年)に発掘調査が行われて、木製五輪塔や納骨壷が見つかったものの、誰の墓かは判明しなかったそうだ。特に嘘をつく理由もないと思うけど。
 南北朝時代については、私自身よく分かっていない部分もあるので、機会があれば勉強して書きたいと考えている。

室生寺3-6

 夕方5時前に室生寺をあとにする。なんとか奥の院まで行って、1時間弱で見学を終わらせることができた。ここまでは予定通り。ほぼ狂いなし。あとは2時間かけて駅までの7キロを歩くだけだ。
 散歩や散策ならともかく、単なる移動で7キロは普通歩かない。東京でいうと、新宿駅から東京駅まで歩くのと同じくらいだ。いくらお金がなくても、ほとんどの人は新宿から東京駅までは歩かない。名古屋なら、名駅から東山動物園くらいだ。名古屋人がそんな距離を歩くはずがない。
 道はほぼ室生川沿いで、なんとなくハイキングコースのようにはなっていなくもない。行き帰りに歩くという人もいるのだろう。ただ、けっこう車通りが多くて、歩道がないところもあるので、あまり気分のいい散策路ではない。林道のようなものだったら、もう少し気分よく歩けただろう。

室生寺3-7

 歩けども、歩けども、駅に近づいたような気がしない。気が遠くなりそうだ。道のりが果てなさすぎる。奥の院の石段の方がましだったとさえ思う。この帰り道は本当に遠く感じた。途中からとにかく、もう歩きたくないと思いで頭の中が一杯になった。歩くという行為にほとほとうんざりした。走るのと違って歩くことに限界はないと思っていたけど、やっぱり限界ってあるものなんだと思い知る。
 客観的に見たら、ものすごくトボトボ歩いたと思う。カメラをぶら下げていなければ、遭難者か何かかと思って車が止まってくれただろう。けど、カメラを持ってるから、好きで歩いてはるんだろうなと通りすぎるドライバーは判断したらしい。ついに最後まで一台も止まってくれることはなかった。室生口大野駅と大きく書いた紙を背中に貼っておくべきだったか。
 赤目滝で一度限界を超えてウォーキングハイ状態になり、長谷寺の帰りでダウン寸前まで追い込まれ、室生口の前半はまた復活模様だったのに奥の院でやられて、室生口からの帰り道でトワイライトゾーンに入った。疲労度のパーソナルベストをたたき出して、自分の歩き能力の限界を知った。
 そんなとき、私を励ますためにある使者が送り込まれてきた。それが下の写真の鹿さんだ。

室生寺3-8

 最初、道路沿いの川岸にいて、私の姿に驚いて、キョン、キョン、キョンというような大きな声を上げて、川をバシャバシャ渡って対岸まで駆けていった。突然の出来事に驚いたのは私も一緒で、とっさにカメラを向けられず、走っている姿を捉えることができなかった。撮ることができたのは、向こう岸に渡ったあとだった。惜しいことをした。この日は望遠レンズも持っていなかった。
 向こうにいったあともこちらをじっと見つめたまま、山中に響き渡るような大きな声で鳴き続けた。鹿があんなに大きな声を出す動物だというのを初めて知った。動物園や奈良公園にいる鹿はほとんど鳴かない。それはまさに、野生の呼び声だった。この声と姿の凛々しさに感動する私であった。
 奈良だから鹿がいるのは当たり前というわけではない。奈良公園からここまでは何十キロもあるから、逃げ出してきたとも思えない。生命力の輝きが野生と飼われているものとは違う。野生動物って、やっぱり美しいものなんだとあらためて思う。いつか大台ヶ原にカモシカを撮りにいこう。
 これでだいぶ疲れが吹き飛んで元気になった。きっと、室生山の神様が、私のあまりのヨレヨレぶりを見かねて、応援を送ってくれたのだろう。ありがとう、室生山と鹿さん。ここまで来てよかった。歩いたからこそこの出会いがあった。赤目からずっと一日歩き回っていろいろ見て、この鹿との遭遇が一番嬉しかった。旅はこういう思いがけない偶然があるから面白い。

室生寺3-9

 鹿との出会いから歩くこと30分。いったん気持ちは元気になったとはいえ、肉体的にはとっくに限界を超えているから、また激しく疲れてきた。そんな私を癒してくれたのがこの看板だった。
「一万本の花が咲く 弁財天 石楠花の丘 直進11キロ」
 って、直進できるか!
 目の前は草ボウボウで、川が流れていて、その向こうは山だ。直進なんてできっこない。川を越えて、山を越えて、真っ直ぐ11キロも歩くなんて、絶対イヤだ。けど、この看板には笑わせてもらった。それで体の力が抜けて、またちょっとだけ気持ちが元気になった。

室生寺3-10

 徒歩の7キロというのは、感覚がよく分からない。一度バスで走った道とはいえ、歩くとなると全然進まない。通った道ということは分かっても、駅から何分くらいだったのかが思い出せない。
 このあたりも田んぼがあったから、そろそろ町まで近いんじゃないかと喜んだら、ここは途中の集落で、またすぐに人家は消えた。実際、ここから駅はまだまだ先だった。
 アオサギが飛び立ったので撮ってみる。風景も単調だから、こんなちょっとした出来事が嬉しい。

室生寺3-11

 バス停の路線図を見ると、なんとか宅前、というバス停がある。完全に個人宅の前じゃないか。きっと、それくらいしか目標物がなかったのだろう。そこに停まる必要があるとすれば、この家の関係者くらいのものだ。
 オレンジに塗られているゾーンは、自由乗車区間となっていて、申告制でどこでも降りることができる。手を挙げれば乗せてもくれる。田舎のバスで暗黙の了解でそうなっているところはあるけど、最初からそういうゾーンとして設定されているのは初めて見た。親切といえば親切には違いない。

室生寺3-12

 室生寺を出て1時間半後、ようやく駅近くまで戻ってきた。橋を渡って、165号線をくぐれば、その先に大野寺があって、そこまで行けば駅までの距離感は分かる。
 上の写真の古い民家は、そば屋さんか何かの店だった。前の田んぼで米を作りながら店もやるというスタイルかもしれない。

室生寺3-13

 大野寺はすでに門が閉まっていた。ここも5時くらいまでだろう。
 大野寺は、室生寺の守りを固めるための寺の一つで、役行者が室生寺と同時に開創し、空海が堂宇を建てたという話が伝わっている。ただ、これも室生寺の伝承と同じで、実際にそうだったのかどうかは分からない。ただ、興福寺との関係が深く、室生寺の末寺だったことは間違いない。
 明治33年(1900年)火事になって、ほとんどの伽藍は失われてしまった。
 重文の身代わり地蔵(木造弥勒菩薩立像で秘仏)や、裏手の弥勒磨崖仏(自然石に刻まれた仏の姿に見える)、シダレザクラなどが有名だ。

室生寺3-14

 予定通り、最後は19時4分発の電車に乗って、帰路についた。お疲れ様でした。
 タイトなスケジュールをほぼ完璧にこなしたというのは、大きな収穫だった。こういう旅もやろうと思えばできるということが分かった。でも、同じコースをもう一度回ってみろと言われたらきっぱり御免被る。今回は分からなかったからできただけで、分かっていたらできていない。無知ゆえにできることもある。
 写真とネタの収穫はたくさんあって、そういう意味では非常に充実した赤目行きとなった。歴史の知識という部分でも大いに得るものがあった。
 断続的ながら長らく続いた赤目行きシリーズもこれで終わりとなる。また明日からは地元ネタや小ネタに戻ろう。まずは大須について書きたいと思っている。写真の枚数が多いから、何回かのシリーズになりそうだ。
 来週はまた電車の旅だ。滋賀と岐阜の歴史巡りは、どんなものになるだろう。関ヶ原あたりではまた歩くことになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと恐ろしいような気もしている。

これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 ~室生寺第二回

奈良(Nara)
室生寺2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。
 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。
 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。
 土門拳は雪の室生寺に執念を燃やした。
 このときは耳鳴りがするほどの蝉時雨が、頭の上から降りそそいでいた。

室生寺2-2

 鎧坂を登った先にあるのが金堂(こんどう)だ。金堂と聞くと、こんどーです、とついモノマネしたくなるのは30代以上のサガ。
 金堂というのは、いわゆる本堂の昔の呼び方だ。奈良時代から平安初期に建てられた寺院はこう呼んでいた。のちに本堂と名前を変えたり、そもそもこの時代の建物が残っていることが少ないので、金堂自体見かけることはあまり多くない。東大寺とか法隆寺とか唐招提寺とか、有名どころに残っていて、金という字が使われてるから、なにやら高尚なものに感じてしまいがちだ。
 室生寺の場合は特殊な例で、もともとの本堂であった金堂の他にもう一つの本堂がある。そのあたりのいきさつは、本堂のところであらためて書くことにして、まずは金堂の話をしたい。
 室生寺というのはいろいろ変わったところがあるというか、分からないことが多い。どういうわけか、本尊を祀るための金堂よりも先に五重塔が建てられている。五重塔は800年前後に建てられたことが分かっている。実質的な開基となった修円がこの世を去ったのが835年で、このときはまだ五重塔しか建っていなかったらしい。
 金堂が建ったのは修円の没後となると、850年前後だろうか。本堂が建てられたのは更にのちの鎌倉時代になってからで、室生寺が現在のような姿になるまでには相当な年数を要したようだ。
 ここは京の都からも平城京からも遠く離れていたことも幸いした。僧兵を持たなかったので戦に巻き込まれることもなく、大きな火事も出さなかったから、静かにゆっくりと歳月を重ねることができた。

 金堂は山の斜面を利用して建てられているために、懸造(かけづくり)になっている。長谷寺本堂や清水寺のような規模ではないものの、このスタイルは日本人の心に訴えるものがあるように思う。カッコいい建物だと思う。崖の途中に無理矢理建てている民家を見ると、土砂崩れは大丈夫かと心配になるけど。
 古い建物の屋根は、やはり柿葺(こけらぶき)がよく似合う。
 木材は杉が多く使われているようで、これは鎌倉末期の大修理でそうなったのかもしれない。正堂部分は平安時代前期のもので、礼堂(らいどう)は1672年に増設されたことが分かっている。最初は本尊を安置する正堂だけだったものに礼拝するための礼堂を付け足すことになって、そのとき懸造になったようだ。
 建物自体も当然の国宝指定で、堂内にも国宝、重文が並ぶ。
 本尊は釈迦如来立像で、これも国宝。もう一つの国宝が十一面観音立像で、あとは重文の文殊菩薩立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、手前には十二神将立像が立つ。
 これはもう圧巻としか言えない。写真撮影は禁止だからお見せできないのが残念だ。ただ、撮ったとしても実物の迫力は伝えきれない。
 以前は金堂の中まで入って近くから見られたらしい。今は舞台のところから離れて見るしかない。それがちょっと残念ではあった。

室生寺2-3

 金堂の左手にあるのが弥勒堂。名前の通り、本尊の弥勒菩薩立像を安置してある堂だ。鎌倉時代の建築で、当初の姿とはだいぶ変わっているらしい。
 本尊も建物も重文なのに、ここに客仏で国宝の釈迦如来坐像がいる。客仏というのは、廃寺になった寺などから移ってきた仏像のことだけど、これはどこから来たものなんだろう。平安前期に彫られたものという以外、どこのものだったのかは分かっていないのだという。
 ここも中は撮影禁止になっている。でも、ぼおっと暗がりの中に浮かび上がっている仏像が写っていて、これが釈迦如来坐像ではないかと思う。
 公開していない仏像や美術品なども多数所有していて、その中にも国宝や重文がたくさんある。特に平安時代初期のものは貴重だ。

室生寺2-4

 室生寺にも神仏習合の一面がある。金堂の右手、弥勒堂の向かいに天神社がある。上の写真は拝殿で、天神社は階段を登った奥だ。
 屋根は苔むしているというより、何か植物を栽培しているみたいでちょっと笑えた。
 室生龍穴神社との関係性を示していると言えるだろう。龍穴神社の方が古い式内社で、それに呼応する形で室生寺が建てられたという説は正しいんじゃないか。

室生寺2-5

 足下を見ると、石に仏像が彫られている。ミニ神棚みたいなものもちゃんと設置されているから、これも大事なものなのだろう。仏はちょっとコミカルな感じだ。下半身がロボットみたい。
 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)という明王像で、4つの顔と4本の手を持ち、あらゆる敵から人間を守る守護神だそうだ。

室生寺2-6

 残念なことに、本堂(灌頂堂)は大がかりな工事中で、全体がシートに覆われていた。鎌倉時代後期の1308年に建てられたもので、これも国宝指定になっている。横に回っても、裏に回っても、見えず、大工さんたちがトンカントンカン、作業をしている音だけが聞こえていた。
 灌頂(かんじょう)という密教の大切な儀式を行うために建てられた堂で、室生寺が真言宗に変わったことから、寺の中心はそれまでの金堂からこちらに移り、本堂となった。
 灌頂というのは、頭に水を灌いで正統な継承者とする儀式で、結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂などがある。
 もともとこの場所には、創建時に本尊を祀るための堂があったとされている。それは五重塔よりも古いものだったかもしれない。
 本堂の建物は和様、大仏様、禅宗様が混じった独特の形式をしているそうだ。見てないので何とも言えない。屋根は入母屋造で、檜皮葺(ひわだぶき)らしい。檜皮葺は材料が貴重でもあるし、お金もかかることから格式の高いものとされ、昔は貴族の家などで使われたという。今はよほど重要な建物でしか使われていない。京都御所の紫宸殿、出雲大社、厳島神社、善光寺、清水寺、北野天満宮などだ。

室生寺2-7

 入り口だけ小さく開いていて、参拝はできるようになっていた。上からはトンカンうるさく音が響いていて、仏様もうるさいなぁと思っていたかもしれない。どの程度の修理をしているのだろう。
 如意輪観音坐像(重文)と、その手前左右には金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が向かい合わせになっている。
 如意輪観音坐像は日本三大如意輪観音とされているそうで、秘仏となっていて見ることはできない。

室生寺2-8

 室生寺一番の見所といえば、やはりなんといってもこの五重塔だ。私が室生寺へ行きたいと思ったのは、この五重塔の存在を知ったからだった。
 階段の下から見上げる構図は定番となっていて、その場に自分が立ってみると、なるほどここしかないなと思う。ちょうど西日を受けて、美しく光っていた。いや、素晴らしい。

室生寺2-9

 近くから見ると小さくほっそりしている。しかし、これは本物だと感じ入る。屋外にあるものでは最も小さな五重塔らしいけど(重文以上の中で)、大きさは問題じゃない。モノが違う。圧倒的な存在感だ。
 法隆寺の五重塔に次いで日本で2番目に古い800年頃のもので、文句なしの国宝だ。
 小さいとはいっても、16メートルある。ビルでいえば5階建てくらいだから、言われるほど小さくは感じない。

室生寺2-10

 この五重塔は、1998年(平成10年)9月22日に、台風の強風で倒れた杉の大木が屋根を直撃して大打撃を受けた。上の写真でいうと、手前左側の軒が上から下までざっくり削り取られてしまった。そのときの写真を見ると、マンガのようにばっくり割れていて、おおおぉぉぉ、と思わず声が出るほどだ。よくぞあの状態から直せたものだと感心する。
 不幸中の幸いだったのは、芯をはずれたことと、五重塔の造りがやわだったことだった。がっしりとした造りだったら、ポッキリ折れていたかもしれない。 
 修理工事は相当大がかりなものとなったようだ。一階ずつ切り離していったん持ち上げて、そこに木材を挟んでジャッキアップして修理していったのだという。解体までしなくてよかったのは、塔がコンパクトで軽かったというのがあった。破損部分の木を組み直して、屋根を葺いて、色を塗り直していき、2年がかりで元の姿を取り戻したのだった。
 以前の姿を知っている人は、色が派手になって安っぽくなったと思うらしいけど、本来の鮮やかさが戻っただけと思えばこの方がありがたくもある。昔の写真を見ると確かに渋いは渋い。でも、今の美しさも充分素晴らしいものだ。あれから8年経ったこともあって、だいぶ色が落ち着いてきたというのもあるだろう。
 修理後も国宝指定のままというのもよかった。修理の途中でいろいろ分かったこともあって、それもよかった点だ。800年前後に建てられたであろうという推定も、木の年輪を科学的に調査することで実証された。794年に伐採された木が使われているというから、ちょうど平安遷都の年だ。
 創建から鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ修理が行われたことも分かって、途中で手を加えられて姿を変えられていることも判明した。初期の頃はまだ板葺きだったようで、今の檜皮葺になったのは江戸時代に入ってからだったらしい。桂昌院が寄進して再興したときかもしれない。明治の修理では軒のラインも変えられという。

室生寺2-11

 五重塔近くにあったこれは何だろう。マップにも載ってないから分からない。

室生寺2-12

 五重塔から先は奥の院になる。ここで迷った。時間との兼ね合いもあって、進むべきか、引き返すべきか考えて、結局進んでしまった。この判断がこのあと私を大きく苦しめることになる。
 あまりにも深いダメージを負って3日回復しなかったことから判断ミスとするか、自分の限界を知ることができたことをもって正しい判断だったとするか、なんとも言えないところだ。ここで引き返していたら、このあとの展開はずいぶん楽になっていたことは間違いない。すでにこの時点でアップダウンの道を4時間半歩いていることを忘れてはいけなかった。更にこのあと2時間歩かなければいけないということを思い出せ。今ならそう私にアドバイスしたい。
 急勾配の階段がここから520段続く。この上り下りでヒザが壊れかけた。ガラスのヒザの人は決して室生寺の奥の院まで行ってはならない。

室生寺2-13

 見上げる巨木たち。途中で少し休むためにこんな写真を撮ったりしてみる。
 途中、立ち止まって休んでいたら、上から杖をついたおじいさんが降りてきた。負けていられないと思う。
 奥の院から帰り道の話はまた次回ということにしよう。最後の最後に室生山は私にとびきりの贈りものをくれる。それはこの旅を通じて最も嬉しい出来事だった。
 次回、室生寺第三回は、赤目の旅シリーズの最終回でもある。

土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

奈良(Nara)
室生寺1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 赤目滝で3時間、長谷寺で1時間歩き、この日の最終目的地である室生寺の手前までやって来た。
 朝の6時半に家を出て、近鉄室生口大野駅に降り立ったのが15時40分。まだ全行程の3分の2を終えたに過ぎなかった。本当に限界を超えるのはこのあとだということに、このときの私はまだ気づいていない。
 駅周辺にはそれなりに民家が集まっていて、ひなびているというふうでもない。街というほどでもないけれど。
 駅近くには小中学校もある。中学の生徒数120人ほどというのはどうなのだろう。1学年20人ずつの2クラスなら、まずまずそれなりなんだろうか。私たちの頃は、1クラス40人以上で最高11組まであったことがあった。そのときはさすがに多くなりすぎて分校ができた。

室生寺1-2

 駅前ではアジサイがまだ枯れずに咲いていてちょっと驚く。赤目とは違って、ここはそれほど山奥というわけではないから、そんなに気候は違わないと思うのだけど。

室生寺1-3

 駅前が無駄なほど広くなっている。バスも車も人もそんなに利用客はいないだろうから、こんなに広くしなくてもよかっただろうにと思う。駅前には店らしい店があるわけでもない。
 室生寺行き最終バスが15時50分。乗客は地元のおばさまと私の二人。運転手さんが心配して、観光客の方ですかと訊いてきた。はい、そうですと答えると、今からだと向こうからの帰りのバスがありませんよと教えてくれた。はい、知ってます。帰りは歩きますので。ああ、なるほどと苦笑する運転手さんであった。
 二人を乗せたバスは、曲がりくねった道を山へ山へと入っていく。5分走っただけで、おいおい、もうすでに駅からだいぶ離れましたよ。10分走ってもまだいっこうに室生寺の気配はない。それどころか民家さえなくなった。これ以上行かないでくれという私の心の叫びが運転手さんに届かなかった。
 15分後、ようやく室生寺の手前にあるバス停に到着した。その距離は想像以上で、とても歩けるような気がしなかった。こんなに来ちゃ駄目でしょうと思ったけど、もう来てしまったからにはしょうがない。7キロくらい歩いて歩けない距離じゃないさと、自分に言い聞かす。
 思えば、室生寺まではまだけっこう元気が残っていた。

室生寺1-4

 室生寺のバス停はずいぶん手前に停まる。もうちょっと先まで行ってくれないのか。寺の入り口まではここから歩いて5分かかる。せめて橋の手前まで行って欲しいぞと思う人は多いだろう。何か理由があるんだろうか。
 遠くにバスが写っている。無情にも私を置いて行ってしまった。けど、なんで室生寺から駅前行きの最終バスが16時台なんだろう。15時50分の室生寺行き最終バスに乗った人は、帰ってこられない。室生寺も17時までは開いてるのだから、バスの最終もそれに合わせて17時すぎくらいにしてくれないと困る。赤目滝も同じように最終バスが早い時間だった。あとから考えると、室生寺を先で赤目滝をあとにして、赤目滝から駅まで歩いた方が近かったことに気づいた。あちらなら1時間ちょっとだっただろう。
 なにはともあれ、室生寺に着いた。ここでも持ち時間は1時間弱と短めだったから、ある程度急いで見て回る必要があった。帰りの歩きを2時間としても、19時4分発の電車に乗るためには、17時には室生寺をあとにしなければいけない。この1時間という時間が私を追い詰め、苦しめることになる。

室生寺1-5

 室生寺前は、長谷寺のような門前町はできていなかった。ここはかなり山の方に入ったところで、街道沿いではないから、昔から訪れる人はさほど多くなかったのだろう。紫式部や清少納言が長谷寺詣でのついでに室生寺にも参拝したという記録は残っていない。直線距離でも20キロ以上離れているから、ついでに寄るような位置関係ではない。今は近鉄の駅で2つだから、ボタンとシャクナゲとセットで訪れる人が多いのだろう。
 室生川沿いには、ちょっとしたみやげ物屋や食堂、宿屋などが並んでいる。昔ながらの観光地風景だ。
 もう少し先に行くと、写真家の土門拳が常宿にしていた橋本屋旅館がある。室生寺を愛した土門拳は幾度となくここを訪れ、長きに渡って室生寺を撮り続けた。
 五木寛之が『百寺巡礼』の一番目に訪れたのも室生寺だった(二番目は長谷寺)。室生寺は、NHKの「21世紀に残したい日本の風景百選」で全国7位、近畿圏では第1位になっている。

室生寺1-6

 室生川に架かる朱色の太鼓橋を渡れば、そこから先はもう室生寺の境内になる。この川と橋とが日常と神域とを隔てる装置の役割もしている。
 土門拳も、何百回となくこの橋を渡ったことだろう。晩年は車椅子になってもここに通ったという。

室生寺1-7

 太鼓橋を渡った正面に、本坊入り口の表門がある。普段は開いていないようだ。右に回ってくださいとある。
 この門も古くて渋い。
 石に彫られた女人高野は、室生寺の代名詞になっている。高野山に代表されるように、密教系の真言宗は厳しく女人禁制だった。ここが女人高野と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからで、五代将軍吉宗の母である桂昌院によるところが大きい。

 室生寺の成り立ちはよく分かっていないと、長谷寺のときにも書いた。寺伝では天武天皇の発願で役小角(えんのおづぬ)が開基ということになっているというくらい古くてはっきりしていない。弘法大師空海が再興したというのも本当かどうか。
 そもそもこの室生の地には早くから山岳信仰があって、龍神信仰と関係があったとされている。ここから東に1キロほどのところに龍穴神社というのがある。龍神は水を司る神として、雨乞いの儀式が行われていたらしい。そして、その龍穴神社を守護するために作られたのが室生寺ではないかという説がある。明日香に都があった頃だという。
 のちの時代の資料によると、780年頃、皇太子の山部親王(のちの桓武天皇)が病気になり、龍神信仰の室生山へ僧5人を派遣して祈らせたところ見事回復したということで、興福寺の僧だった賢(けんきょう)に命じて室生寺を建てさせたと書かれている。あるいは、賢が独断で創建したとも言われている。
 賢はこのあとすぐにこの世を去っているので、寺の実際の造営は弟子の修円が引き継いだ。そういう経緯からか、修円の廟があるだけで賢景のものは存在しない。
 円修は興福寺の出身で、最澄について天台僧になり、天台座主の後継者争いで円澄に破れて室生寺にやって来た。当時は、最澄、空海と並び称される高僧だったというけど、今では知名度が低くなっている。
 天台宗、真言宗の影響を受けながらも室生寺は長らく興福寺との関係の中で存続していくことになる。しかし、江戸時代になると興福寺の力が衰え、法相宗から独立して真言宗の寺院となった。このとき堂塔修理のために2千両も寄進したのが綱吉の母・桂昌院で、それをきっかけとして室生寺は女性に開放されたのだった(高野山は江戸時代の終わりまで女人禁制が続いた)。
 女人高野室生寺の石碑には桂昌院の実家の家紋が入っている。
 現在は、言宗室生寺派の大本山となっており、山号は宀一山(べんいちさん)という。これは室生の略だそうだ。

室生寺1-8

 室生寺の境内図。山の麓から中腹、山頂にかけて堂が建っているように描かれていて大げさなように思えるけど、実際この通りだったりする。どこへ行くにも階段を登らないといけない。その数700段。この上り下りでヒザがおかしくなった。ヒザ殺しの寺と命名したい。ここは典型的な山岳寺院だということを覚悟して訪れなければならない。
 映り込んでいるのは亡霊ではなく私なので安心してください。帰り際の私の顔は幽霊のように青ざめていたかもしれないけど。

室生寺1-9

 屋根が苔むした赤門。背後の緑といい、とても夏らしい色合いだ。秋になるとここは赤や黄色に染まるらしい。
 木目なのになんで赤門だと思いきや、よく見るとうっすら赤色が残っている。昔は赤色をした文字通り赤門だったようだ。
 表門の脇にある小さな門だから、通用門のようなものだったのかもしれない。もしくは、この裏手にある護摩堂への門だったのか。

室生寺1-10

 ようやく実質的な入り口に当たる仁王門まで辿り着いた。バス停からここまでは5分では来られない。10分くらいかかったんじゃないか。この時点で私の持ち時間は50分を切っていた。
 左手が入山料を払う窓口になっている。ここは600円。少し前まで500円だったはずなのに、いつの間にか値上げしたようだ。本堂の修理をしていたから、それがきっかけになったのだろう。こういうところは言い値だから、言われたとおり払うしかない。

室生寺1-11

 仁王門(楼門)は1965年(昭和40年)に再建されたものということで、古さが醸し出す本物感に欠ける。ほとんど古い建物ばかりの室生寺の中では、この仁王門は例外的な存在だ。
 両脇に立つ赤青の仁王さんも、どこか軽い印象を受けた。これは土門拳も撮りたいと思わなかっただろう。
 室生寺は創建から1300年の間、一度も兵火で焼けておらず、平安初期の山寺の姿を残す唯一の寺といわれている。

室生寺1-12

 逆光の仁王門は、いい感じだった。紅葉の時期、ここに多くの人が訪れるというのも分かる。
 シャクナゲの寺としても有名で、4月の終わりから5月のはじめにかけて5千株の花が境内を彩るという。女人高野だけに、ピンクの上品な花はこの寺によく似合う。

室生寺1-13

 バン字池に映り込んだ仁王門も撮ってみる。ここも紅葉のときはねらい目になりそうだ。
 浮いている水草は、スイレンか。お寺だけにハスもあったかもしれない。
 バン字池というのは、梵字で金剛界大日如来を表しているんだそうだ。

 室生寺の写真を集めてみたら、2回分では収まらなかったから、全3回シリーズとした。最後は赤目行きの総括もして、この旅の締めくくりとしたい。
 この先はいよいよ登りの階段が始まる。一緒に登った気分でご覧ください。

長谷寺には神と仏がいて、神仏グッズ自販機の夢が膨らむ ~長谷寺4回

奈良(Nara)
長谷寺本堂を横から見る




 長谷寺本編の続きで、今回が長谷寺シリーズの最終回となる。昨日は本堂の前まで行ったから、今日はそこから再開しよう。
 大迫力の本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)と、相の間、礼堂(らいどう)が一体となった巨大なもので、奈良東大寺の大仏殿に次いで日本で2番目に大きな木造建築だそうだ。ただ、実際目にするとそこまで大きいとは思えないのは、背の高さがあまり高くないからかもしれない。東大寺の大仏殿は高さもあって大きく見えるのだろう。
 入母屋造の本瓦茸で、正堂は間口16メートル、奥行き9メートル、礼堂も同じくらいあって、一番外側には9メートル×5.5メートルの舞台がせり出している。
 清水寺のように斜面に建っている建物を懸造(かけづくり)と呼び、舞台があるものは特に舞台造という。懸造はちょこちょこ見かけても、舞台造となるとなかなかない。
 本堂は奈良時代から室町時代にかけて7回焼失して、そのたびに再建されている。歴史が長いとはいえ、これはちょっと多い。
 1588年に豊臣秀長が援助して新しい堂が建てられた。その後、江戸時代に入って傷みが激しくなり、雨漏りとかしてきたために三代将軍家光に頼んで新築した。現在の本堂は9度目の再建(1650年)ということになる。
 家光は、日光東照宮だけでなく、全国のあちこちでたくさんの寺社を修理、再建している。五代将軍綱吉あたりまではどうにか幕府も金があって名前は出てくるものの、八代将軍吉宗になるとそれどこじゃなくなって寺社絡みではほとんど名前が出てこなくなる。神社仏閣を再建するよりも幕府の財政を再建しなくてはいけなくて、それどころじゃなかった。現在、国宝や重文になっている貴重な建築物は、家光のおかげという部分がかなりある。尾張では、二代藩主の光友が同じく寺社の再建に力を入れた。二人は家康の孫という共通点がある。
 2004年に本堂が国宝に指定された。



長谷寺小さな社

 本堂と鐘楼の間に、こそっと小さな神社がある。これは何だろう。調べがつかなかった。
 寺の歴史を見ても、神仏習合の経緯は分からない。この他にも神社系統のものが出てくる。家光が関わって以降、そういうことになっていったのか、それ以前からなのか。



長谷寺三社権現

 ここにも神社がある。三社権現で、徳道上人が創建したものというから、やはりかなり古くから神仏習合の歴史があったようだ。これも1650年に家光が再建している。
 権現(ごんげん)というのは、仏が神の姿をして現れるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)に基づくもので、神でありながら仏でもあるという神仏習合の表れだ。
 石蔵権現は地蔵菩薩、滝蔵権現は虚空蔵菩薩、新宮権現は薬師如来と、それぞれ神と仏が対になっている。日光東照宮のところでもそのあたりのことは書いた。



長谷寺朱の鳥居

 稲荷さんの鳥居も見えていた。時間がなくて上までは行かなかったので、詳しいことは分からない。三社権現の隣には愛染堂があったはずで、これはその関係だったかもしれない。
 しかし、寺に鳥居があるとやっぱり一瞬混乱する。日光でだいぶ慣れたとはいえ、あれっと思う。



長谷寺絵馬

 ややまばらな絵馬。ここまで来る人は少ないのか、季節外れだからか。
 絵馬だけを飾ってあるこの建物は、絵馬堂だろうか。
 絵馬は寺より神社のイメージが強いものの、寺で絵馬が不自然というほどではない。
 左には舞台のようなものがある。



長谷寺招き猫自販機

 本堂横の自動販売機に招き猫がいた。
 値段のところを乱暴に白スプレーで塗りつぶしている。売り物ではありませんということを言いたかったのだろう。
 150円とか200円入れたら招き猫が出てくる自販機というものがあったら面白い。おみくじだってもうずいぶん昔から自販機になっているのだし、寺社グッズの自販機というのがあってもいい。お守りでも札でもストラップでも、自販機で売ったら話題になってよく売れそうだ。消しゴムの仏像シリーズガチャガチャなんかいいではないか。ブツ消しはいける。みうらじゅんなら喜んで全種類集めるに違いない。不動明王とか、釈迦如来とかが、地蔵とか、キャラは豊富だ。



本長谷寺の堂

 登廊から右手が本堂などがある東エリアで、五重塔その他は西エリアにある。上の写真の本長谷寺も、西の岡の五重塔近くに建っている。
 686年、道明上人がここに長谷寺の元となる建物を建てて、銅板法華説相図を安置したことが長谷寺の基礎となった。建物はのちの時代の再建にしても、この場所から長谷寺の歴史が始まったと言える。
 銅板法華説相図は国宝指定で、現在は宗宝蔵に保管してあるそうだ。一般公開はされていない。特別公開はあるのだろうか。
 弘法大師御影堂は奥まったところにあったので行けなかった。



長谷寺五重塔

 美しい姿をした五重塔だ。ただ、昭和29年(1954年)に再建されたものなので古さはない。戦争の犠牲者の慰霊と世界平和を祈願して建てられたものだそうだ。
 このすぐ南側に三重塔跡というのがある。道明上人が建てて、豊臣秀頼が再建したとされるもので、明治9年(1876年)に火事で焼けてしまったそうだ。



長谷寺寺院の建物

 西の岡にはいくつかの寺院が集まっている。みんな門が閉まっていたから、一般に向けては門を開いていないのだろうか。
 全部入れるようなら、見学時間が2時間くらいかかってしまいそうなくらい建物は多い。



長谷寺写経堂

 たぶん、写経堂という建物だ。文字通り写経をするところだろうか。このときは門が閉ざされていた。最近は体験写経をする人が増えたから、予約すれば写経ができるのかもしれない。



長谷寺入り口

 30分という短い時間の中、駆け足の長谷寺参拝だったので、すべて見ることはできなかったのは少し心残りだった。特に本堂の舞台を見逃してしまったのは失敗だった。帰ってきてからいろいろなサイトでいろんな角度からの写真を見て、こんなところもあったのだと思うことがたびたびあった。下から本堂を遠景で撮るというのも気づかなかった。
 とはいえ、まずは行けたということを喜びたい。赤目滝と寺二つはちょっと無理があると思いつつ強引に行っておいてよかった。長谷寺と室生寺をセットで行っていなければ見えなかった事実もある。太陽の道のことを知ることができたし、日光とつながる部分もあった。これがまた今後別のところへつながっていくだろうという予感もある。
 奈良はまだまだ奥が深い。法隆寺も飛鳥もぜひ行きたい。それはドラマ「鹿男」を観ているときから思っていたことだ。
 長谷寺編はこれで完結となった。次回からは室生寺編を始めることにした。

 土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

【アクセス】
 ・近鉄大阪線「長谷寺駅」から徒歩約25分。
 ・駐車場 有料(1回500円)
 ・拝観時間 8時半-17時(季節による変動あり)
 ・入山料 500円

 長谷寺webサイト
 
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