ほどよいことの居心地のよさを教えてくれた松本の街

観光地(Tourist spot)
松本街巡り-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 松本の観光名所といえば松本城、でももちろんそれが松本のすべてではない。松本城周辺を歩いて巡れば、松本の魅力と出会うことができる。
 今回は短時間の滞在ということで表面をなぞっただけになってしまったけど、私が見てきた松本の街を少し紹介したいと思う。

 まずは開智学校(かいちがっこう)から。
 松本市内の二大観光名所として、松本城とセットで見に行くという人も多いと思う。松本城からはゆっくり歩いて10分くらいだったか。駅からは少し遠いので、タウンスニーカーという巡回100円バスで松本城までは行った方がいいかもしれない。帰りは歩きで駅まで行ったらけっこう距離を感じた。車で訪れた場合は、開智学校の無料駐車場に車をとめて、松本城と両方見学するという手もある。
 開智学校は、日本における最初期の小学校の一つで、明治6年(1873年)に第一中学区第一番小学開智学校 として開校した。
 廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として始まり、明治9年に現在の新校舎が建てられた。
 建築費用は1万1,000円という当時では莫大な金額だったにもかかわらず、7割を松本町の住民の寄付金でまかなったという。それだけこの地方は教育に力を入れていたということであり、この学校は町の人の誇りでもあったろう。残りの3割は寺の古材などを売ったり、別のところの寄付に頼ったりして調達したそうだ。
 設計を担当したのは、松本の大工棟梁、立石清重だった。しかし、松本には西洋建築はなく、東京まで行って東京大学の前身である開成学校を参考に見よう見まねで設計したという。そのため、和洋折衷でちょっとへんてこりんな感じに仕上がった。自称日本通の外国人が自分の家に造った和風庭園みたいに。
 こういう建物を、擬洋風と呼んでいる。
 もともとはこの場所ではなく、市街地の女鳥羽川(めとばがわ)沿いに建っていた。
 明治、大正、昭和と、学校として使われ、昭和36年(1961年)には国の重要文化財にも指定された。
 昭和38年に河川改修のために校舎が現在の地に移され、昭和40年からは教育博物館として保存公開されている。
 入場料310円で校舎の中に入ることもできる。当時の教室がそのまま保存されていたり、筆記具や資料などが展示されているそうだ。
 我々は、松本城同様、ここにも遅刻して入れてもらえなかった。
 この学校には明治天皇も訪れているそうだ。

松本街巡り-2

 この角度の写真を見て、あれ、最近、これどこかで見たことあるぞと思った人は、ドラマ「有閑倶楽部」を観ていた人かもしれない。
 現在は玄関部分が大がかりな工事中で、これはちょっとがっかりだった。ここまで派手に足場を組まれてネットをかけられてしまうと、そこを外して写真を撮るなんてこともできない。趣も何もあったもんじゃない。
 2004年から2005年にかけて閉鎖して大がかりな改修工事をしていたはずで、もうすっかり大丈夫かと思ったら、また3年で問題が出てきたのだろうか。直したところとは別のところかもしれない。
 内部は通常通り公開されているはずなので、見学は問題ない。

 この建物の一番の特徴は、屋根の上に乗った八角形の塔だ。洋館といえば塔だと思ったのだろう。外国人が和式庭園といえば太鼓橋を思いつくようなものだ。でもこれ、ちょっと唐突な印象を受ける。
 塔の下には一転して和風の唐破風屋根が乗る。そこには飛んでいるエンゼルの姿が描かれ、その下には龍の彫刻が施されている。かなり思い切った組み合わせのデザインだ。
 唐破風屋根の露台は一見するとバルコニーのようでありながら人が立つスペースはない。ただの飾りだ。なんとなくそれっぽいから付けてみたのか、外に出られてしまうと子供が面白半分に出て危険だからあえて出られないようにしたのか。
 窓には輸入した高価な色ガラスなどが使われ、かつてはギヤマン校舎とも呼ばれていたそうだ。当時の人たちにとってはこの校舎は、なんとなくすごくモダンな感じがしたんじゃないだろうか。
 内部も様々な装飾や彫刻などがあって凝っているらしい。松本城の天守内部よりもこちらの方が面白そうだ。
 現存する古い校舎としては、佐久市の中込学校や伊豆松崎の岩科学校、愛媛の開明学校などがある。犬山の明治村には、明治16年に建てられた三重県蔵持小学校の古い校舎が移築展示されている。

松本街巡り-3

 開智学校と道一本隔てた左手には、旧司祭館が建っている。これも別の場所から移築してきたものだ。もともとは三の丸の大名屋敷跡の地蔵清水にあったもので、平成3年(1991年)の拡張工事のとき、ここに移されてきた。
 こちらは無料で内部を見学できる。ただし、時間は他と同じく4時半までだ。
 明治22年にフランス人のクレマン神父が、住居として自ら設計して地元大工によって建てられた西洋館で、長野県に現存する最古の西洋建築だ。移築されるまでは、松本カトリック教会司祭館として使われていた。
 西部開拓時代のアーリーアメリカン様式の建物で、基礎にレンガを積んで、外壁はペンキを塗った下見板張になっている。
 ほぼ正方形のような形で、どこが入り口なのかよく分からない。たぶん、写真の角度がそうなのだろうけど、短い階段があって、踊り場もなくいきなりドアというのも不思議な感じがする。窓も大きくて多い。明治の大工さんにしてみたら、異人さんは変わった家に住むもんだと思ったかもしれない。
 各部屋には暖炉があるという。フランス人には松本の冬の寒さはこたえたのだろう。

松本街巡り-4

 松本はやはり空気が澄んでいるのか、CanonのEOS 20Dとは思えないほど深い青が出た。順光で、光の加減が最高だった。

松本街巡り-5

 こちらは現在の開智小学校。旧開智学校をかなり意識しているのが分かる。
 なかなかしゃれたデザインの校舎だけど、50年後、100年後に今の開智学校ほどの価値を持つようになるとは思えない。
 今私たちが感じる明治の建物に対する独特のノスタルジーというのは何なんだろう。日本人の建築デザインセンスは、この100年で退化してしまっている部分があるような気がしてならない。

松本街巡り-6

 松本でも安曇野でも丸ポストを見た。このあたりの風景にはよく似合う。
 となりの煙草屋も昭和の風情だ。こんなところにタスポなんていう無粋なものが似合うはずもない。

松本街巡り-7

 松本城の北に松本神社というのがあったので寄っていくことにした。どこへ行ってもその土地の神社に挨拶をしておくことは大切なことだ。せっかく縁あってその土地を訪れているのだから、そこの神様と縁を結んでおかない手はない。素通りしてしまうのはもったいない話だ。
 前身は郷土の発展と縁結びの神様の暘谷大神社(ようこくだいじんじゃ)で、松本城主・松平康長と松姫の子虎松を祀った神社だった(1636年)。
 その後、松本城主・一色義遠を祀った片宮八幡宮、戸田宗光の今宮八幡宮、松平康長の共武大神社、松姫の淑慎大神社、島立貞永の若宮八幡宮を合祀して、松本神社となった(1953年)。
 地元では五社(ごしゃ)さんと呼ばれているそうだけど、合体しているのは6社だ。本体プラス5社ということか。
 いずれにしても、祀られているのは、神様というより松本城絡みの人間様だ。松本城内にあってもいいような神社だ。

松本街巡り-8

 松本神社の御神木である三本の欅(ケヤキ)が境内の外に出ている。歩道と中央分離帯を作って、なんとか残した姿勢をたたえたい。昔はここも境内の中だったのだろう。

松本街巡り-9

 これもたまたま前を通りかかった四柱神社(よはしらじんじゃ)だ。どういう由緒の神社か知らず、外から挨拶するだけにとどめてしまった。祭神が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)と知っていれば、中まで行っていたのに。神様とも一期一会を大切にしなければいけないとあらためて思った。
 明治政府の神仏分離令を受けて、明治7年に神道を広めるために建てた神道中教院が前身だった。地元の人は「しんとう(神道)さん」と呼ぶらしい。
 明治12年に現在の位置に四柱神社として社殿が建てられ、明治天皇も訪れてたそうだ。
 明治21年に松本大火で社殿を焼失。現在のものは大正13年に再建されたものだ。

松本街巡り-10

 松本市街地観光としては、二つの特徴的な通りがある。一つが上の写真の縄手通りで、もう一つが中町通りだ。
 女鳥羽川沿いに並ぶ露天街は、常設の露店としては長さ日本一なんだとか。
 縄手(なわて)の名前の由来は、松本城の外堀と女鳥羽川に挟まれた真っ直ぐの細い道だったからとか、お縄になった罪人が通る道だったからとか、いろいろな説があってはっきりしていない。
 露店街として発展していったのは戦後で、大陸からの引揚者がここで露店を並べていたことが始まりだそうだ。
 2001年に全面改装されて、現在は昔の風情を残した観光地となっている。
 この通りのシンボルはカエルで、入り口にはカエル侍の像があった。中程にはカエル大名神が祀られている。
 昔から歩行者天国で、無事に帰るところからカエルの街になったんだとか。かえる祭りというのも行われていて、全国からカエル好きが集まってくるらしい。カエル好きって、そんなにいたんだ。

松本街巡り-11

 縄手通りのすぐ裏手に女鳥羽川が流れている。市の中心を流れているこの川は、松本っ子には馴染み深い川なんだそうだ。
 ドラマ「白線流し」も、このあたりがよくロケ地として使われていた。実際に白線流しをしたのは、少し離れた薄川(すすきがわ)だったのだけど。
 なかなかきれいな川で、上流にはイワナがいて、中流ではヤマメやホタルもいるらしい。
 市街地はやや汚れているようだけど、これでも最近ずいぶんきれいになったんだとか。

松本街巡り-12

 川を越えて、中町通りへと入ってきた。
 なまこ壁と呼ばれる白と黒の壁が特徴的な土蔵造りの町並が残っている。
 写真の中町・蔵シック館は、蔵の街の拠点として、平成8年にの場所に移築されてきた。もともとは宮村町にあった大禮酒造(たいれいしゅぞう)で、母屋と蔵と離れの3棟を改修して移築したものだ。建てられたのは明治21年、土蔵造りとしては初期のものとされている。
 現在は一階は喫茶や休憩室になっていて、二階は展覧会や公演などに使われている。

 中町は、かつての旧善光寺街道沿いで、本町・東町と共に商店街として賑わったところだった。
 しかし、明治21年に極楽寺から出た大火によって1,500戸もの民家が焼けてしまう。その後、家を火災から守るために、火に強いなまこ壁の土蔵に建て替えられることとなり、その名残が現在へと続いている。
 本町通りや大名町通りが開発でかつての面影を失う中、中町ははずれだったために昔の姿をとどめることになった。当時の蔵は90棟ほど残っているそうだ。
 中町がいいのは、電柱を地下に埋めているところだ。これでずいぶん印象が違ってくる。

松本街巡り-13

 これまた古いたたずまいの店だ。伊原漆器専門店。明治40年の創業以来、漆一筋100年。商売にブレがない。

松本街巡り-14

 わっ、なんだあれ、と人目を引く天守の姿をしている店舗。どうやら古本屋らしい。
 看板の名前が読めなくて、帰ってきてから調べたら、青翰堂(せいかんどう)という有名な古書店だったらしい。
 なんでも、昭和の大改修のとき、松本城が見られない観光客が気の毒だということで、松本城の天守を模して改築したんだそうだ。なかなかやる。城型のレストランみたいな安っぽさがなくて、けっこう本物感がある。

 松本の街のよさは、ほどよい加減にあると見た。威張るでもなく、必死すぎず、わざとらしくなくて、さりげない。古くてよいものは残し、かといって過去の遺産にしがみついているわけでもなく、観光地と暮らすための街とのバランスが上手く取れているように見える。駅前にはちゃんとパルコだってある。ひなびていないし、うるさすぎることもなく、なんというかちょうど心地いい感じなのだ。街に落ち着きと品がある。松本城を世界遺産なんかにしたら一気にバランスが崩れてしまうから、松本は今くらいでちょうどいいんじゃないかと思うけどどうだろう。
 松本なんて松本城くらいしか見るものがないじゃないかなんて言わず、ぜひ一度松本を訪れてみて欲しい。街を歩いてみれば、魅力をたくさん発見することになるから。私もいくつか忘れ物をしてきたから、もう一度訪れる機会があることを願っている。
記事タイトルとURLをコピーする
コメント
コメント投稿

トラックバック