安土城跡を訪れてこんなんじゃないやいとだだをこねたくなる気持ち - 現身日和 【うつせみびより】

安土城跡を訪れてこんなんじゃないやいとだだをこねたくなる気持ち

安土の桜並木


 あの有名な安土城(地図)があったところが観光地になっていないという事実を、私は安土駅(地図)に降り立って初めて知ることになった。安土駅前はひなびた田舎の駅といった風情で、信長の銅像がなければ間違ったところで降りてしまったかと思うほどだ。
 考えてみると、信長ゆかりの史跡というのはあまり残っていないことに気づく。生まれたとされる那古屋城はすでになく、最初の拠点だった清洲城も、天下統一への足がかりとした小牧山城も、岐阜城も、オリジナルはすでにない。今ある天守などはすべて昭和に入ってからの復元したものか模擬でしかない。信長時代の本能寺もなく、桶狭間の合戦跡も小さな公園(地図)があるだけだ。
 秀吉でも大阪城をはじめとしていくつもあるのに、信長が関わったもので現存しているものはあまりない。信長自身はこんなにも有名なのに、信長の足跡を辿ろうとするとどこへ行っていいのかすぐに思い浮かばない。
 今回訪れた安土城下で、私は呆然とするような思いに襲われた。本能寺の変以降、こんなにも何もないところになってしまっていたのかと。天下統一直前までいった英雄の業績が、これほど軽んじられているのは驚きを通り越して不自然ささえ感じる。あとに続いた人間が忘れようとしたのか、わざと打ち消したのかのどちらかだろう。家康は信長に対して一体どんな思いを抱きながら日本を作っていったのか。秀吉は死期が近づいた頃、枕元に立つ信長の亡霊におびえたというから、やはり後ろめたい気持ちや畏れがあったのかもしれない。

 桜シーズンということで、安土城跡にはそこそこ人が訪れていた。
 安土駅からは徒歩で20分と書かれているけど、実際はもう少しかかる。公共交通機関がないので、歩くか、タクシーに乗るか、レンタサイクルしかない。
 私は20分くらいならそんなに遠くないだろうと安易に考えて徒歩で向かったら、これが大失敗。往復の歩き50分プラス山登りと山下りの1時間、あわせて2時間歩くことになって、帰りはフラフラのヨレヨレになった。安土城を侮ってはいけなかった。素直にタクシーかレンタサイクルで行くことをおすすめしたい。
 発掘調査が進んで、昔の姿がかなり復元されつつある中、2006年から有料になってしまった。ずっと無料だったのに急に500円も取られる。それに見合うだけのものがあるかといえば、石段や石垣の跡くらいしかなく、山登りをさせてもらうのに500円払うみたいなものなので、信長や安土城にそれなりの思い入れがないと悔しさと疲れだけが残るかもしれない。
 安土城跡は国の史跡に指定されているものの、安土山の敷地は総見寺と個人の所有らしいから、有料なのは仕方ない。ただ、入山500円で駐車場も500円というのはちょっと取りすぎじゃないか。300円くらいにしてほしいと思う。
 何はともあれ、念願の安土城だ。前から一度は訪れなければいけないと思っていたところにようや訪れることができて、着いたときには感慨ひとしおだった。おお、ここが安土城かと。



大手道の石段

 本能寺の変以降しばらくすると、安土城は訪れる人もないほど忘れられた城となっていた。
 人々がようやく安土城のことを思い出したのは、大正時代に入ってからだった。大正7年(1918年)に保存会が発足して、その活動が認められて国の史跡に指定されたのは大正も終わりの大正15年のことだ。城跡の石碑が初めて建ったのは昭和2年だった。
 本格的な発掘調査が行われたのは昭和15年で、第一回の復元工事は昭和35年だった。それから15年ほどかけて少しずつ調査と復元が行われ、平成元年から二回目の大がかりな作業が20年計画で進められた。訪れたときはこれといった調査や工事は行われていなかったから、一段落したところのようだ。
 平成4年にはセビリア万国博覧会に出品するために城の上の部分だけ原寸大の復元天主が作られた。現在それは、「信長の館」に展示されている。安土城跡地からは少し離れたところにあったので、今回は寄れなかった。あわせて行っておくとより安土城のことが分かるに違いない。

 それにしてもここはなんだろう。なんだか悲しくて仕方なかった。こんなんじゃないという思いに打ちのめされて、信じられない気持ちでいっぱいになった。石垣が立派だとか偉容の一部を垣間見えるという感想を抱く人も多いようだけど、こんなガタガタの無惨な姿を見せられてはやりきれない。積み直された石垣も石段も、美しさからはほど遠く、かつての面影はどこにもなかった。歳月の残酷さを思い知る。
 安土城の素晴らしさは、絢爛な天主だけでなく、整然とした美しさを備えた城郭そのものだったはずだ。荒れ果てた上に中途半端な復元が痛々しい。石段の組み方だってガタガタだ。人並み外れた美意識を持っていたであろう信長がこんな汚い石段を許すはずがない。私が申し訳ないような気持ちになった。
 死後の世界を信じなかったとされる信長のことだから、自分の死んだあとのことなんてどうでもいいと思っているかもしれないけど、今この姿を見たらどんなふうに思うだろう。是非に及ばず、か、であるか、か。
 自分の中にあったイメージとのあまりのギャップの大きさに戸惑いながら、大手道を登っていく。いや、しかし、これはきつい。昔の人はどんだけ元気だったんだ。こんなもの、毎日上り下りしていられない。エレベーターもエスカレーターもないし、馬で登れる道でもない。信長も自ら行ったり来たりしてたんだと思うと、昔の人の足腰の丈夫さにあらためて驚かされる。モダンでハイカラな信長のことだから、人力のベルトコンベアくらい発明できなかったのかと無茶なことを思ったりもした。



邸宅跡

 大手通はほぼ直線に180メートルほど続き、少し登った左右には秀吉や前田利家の邸があったとされる跡地が発掘調査で明らかになっている。ただ、実際に資料があるわけではなく、敷地の規模などからしておそらくそうだろうということになっているだけだ。秀吉の方が広くて、利家の方が狭いというのも、あえてそういう差別化を図ったのだろうか。
 家康邸の跡もあるというのだけど、それはどうなんだ。家康は信長の家臣というより同盟者だ。安土城に家康が住むだろうか。家康が安土城を訪れているのは記録にあるけど、住んでいたという事実があるのかどうか。
 安土城に関してはいろいろと謎が多く、分かっていないこともたくさんあるので、想像で語られている部分はある程度差し引いて考えた方がいい。信長が狩野永徳に描かせて、天正遣欧使節によってローマに運ばれた安土城絵図屏風がもし見つかれば決定的な資料になるのだろうけど、いまだにそれは見つかっていない。現存する可能性は低いとされながらも、今もバチカンのどこかに眠っていると信じる人も多い。



大手道から見下ろす

 大手道をふうふう言いながらしばらく登って後ろを振り返ってみる。すでにけっこう高い。私はこの時点でかなりヨレ気味。そんなことではお館様に怒鳴られそうだ。
 この真っ直ぐ続く大手道は、安土城が守るための城ではなく、権威の象徴として建てられたものだということを表していると言われている。戦国時代、入り口から城内へ続く道がこんなに広くて真っ直ぐの城は他になかった。この当時、すでに信長はほぼ全国統一を果たしている時期なので、この城まで攻め込まれる心配はなかったからというのが一般的な説だ。
 ただ、大手道に関しても、はっきりしたことは分かってないので、後世の解釈は間違っている可能性もある。



信長霊廟

 かつて二之丸(西之丸)があった場所に、信長の霊廟(れいびょう)がある。信長自らが神として祀られるために建てたとも、秀吉が一周忌のときに建立したとも言われている。
 現在のものは江戸時代に建て直されたもののようで、かつてのものとは違っている。
 本能寺で信長の遺体は見つかっておらず、入れる遺骨も何もないから、信長の衣装や太刀、本能寺の灰を埋めたという話もある。
 信長の墓所や霊廟は、京都の阿弥陀寺や再建された本能寺の他、主だったものだけでも全国に10ヶ所以上ある。神様として祀った神社も数ヶ所あるものの、どこも天下人に対するような扱いのものではない。豊国神社や東照宮があちこちにある秀吉や家康とは、この点でも大きく違う。生きている間にさえ神になろうとした信長が死後も神様になれなかったとは、皮肉といえば皮肉な話だ。



本丸跡

 突然広い場所に出る。安土城内で最も広いここは、本丸跡だ。
 東西50メートル、南北34メートルのこの場所に、かつて本丸御殿があったとされる。
 調査によって119個の礎石が見つかっていて、そこに建っていたのは、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることから、ここに天皇を住まわせようと信長は考えていたのではないかと言われている。これも実際のところはどうか分からない。あり得ない話ではないと思うけど。
 天主は更にこの上にあるから、信長は天皇を見下ろす格好になる。天主とは橋が架けられていて行き来ができるようになっていたという説もある。



天主跡

 どうにかこうにか、天主跡に辿り着いた。これはもうほとんど山登りだ。ヒザがおかしくなりそうだった。
 天主跡地は、思いのほか狭い。ただ、家でも取り壊してしまうと意外なほど土地は狭いものだから、天主が建っていれば逆に大きいと感じただろう。「信長の館」にある原寸大とされる天主は、上の部分だけでもやっぱり大きく思うらしい。
 礎石を見ると、正方形でなく八角形をしている。安土城天主の姿は、図面で残されていないため、知る手がかりとしては現場の遺構と、同時代人が書き残した文章しかない。太田牛一の「信長公記」や宣教師ルイス・フロイスの記述がどこまで正確なのかは、今となっては知りようがない。研究者によっても意見は様々で、天主に関してもいくつもの説があって、本当のところは分かっていない。セビリア万博に出展したものは、内藤説といわれるものを採用した。
 ただ、五重の七階建てで、最上階は金ピカ、下の階は朱色の八角形、黒漆塗りと白壁で、内装は華麗絢爛な障壁画と色彩で飾られていたというあたりまでは信じてよさそうだ。常識外れの豪華さと美しさであったことは間違いないだろう。
 ところで、天主と天守は同じものであり違うものだ。現代は天守閣と書くけど、これは秀吉以降の表記で、信長の時代までは天主とされていた。安土城だけが天主の表記を使っていたわけではない。
 安土城は、日本で初めて大型天守を持った城でもあった。城の思想としても、中世城郭から近世城郭へと移行させた功績を持つ。安土城以降、秀吉も家康も、この城を手本として城を築いた。

 安土城を訪れてみると、どうしてこんな田んぼに囲まれたへんぴな場所に、信長は天下統一のための城を築いたのだろうと不思議に思う。それは、昔のこの場所の地理を知ると納得する。
 今でこそ琵琶湖から離れた内陸の小山となっている安土山も、かつては琵琶湖の内湖である西の湖と伊場内湖によって三方を湖で囲まれた小高い岬で、城を建てるにはちょうどよい場所だったのだ。第二次大戦後、周囲を干拓地にしたことでその地形は大きく様変わりした。現在は西の湖の一部が少し離れたところに残るのみだ。
 位置的には、それまで住んでいた岐阜城よりも京都に近く(徒歩で一日半)、東には中山道、北には北陸道、南は東海道が走っていて、琵琶湖を使って舟で物資を運ぶにも適しているというのがあった。
 1576年、観音寺城の支城のあった安土山(199メートル)に、丹羽長秀を総普請奉行として、当代一流の技師や芸術家を終結させ、足かけ7年をかけて安土城を築城した。
 1579年に落雷で天主が焼失したとルイス・フロイスが書いているけど、本当かどうかは分かっていない。
 1582年、信長は天下統一の最後の仕上げにかかっていた。中国地方の毛利軍攻略に苦戦していた秀吉の出陣要請を受けて、安土を出発。京都の本能寺に泊まっていたところを明智光秀に襲撃されてあっけない最期を遂げる。
 本能寺の変のとき、安土城の留守を預かっていたのは、蒲生賢秀だった。知らせを受けた賢秀は、信長の妻子を逃がすために居城である日野城へ移り、空になったところを光秀の甥の明智左馬介秀満が入った(ゲーム「鬼武者」で主人公だった明智左馬介だ)。
 しかし、山崎の合戦で明智光秀が秀吉に敗れてしまい、秀満は安土城を出て、明智の本城である坂本城へ移った。ほどなくして安土城の天主が燃え落ちていることから、城を焼いた犯人は秀満だったと言われてきた。一方で、このあと安土城に入った信長の次男信雄(のぶかつ)がやったという説もある。ルイス・フロイスは信雄犯人説を書いていて、その理由は信雄はお馬鹿さんだからというものだった。確かに信雄の評判は悪い。
 案外もっと無名の小物がやった可能性も充分ありそうだ。たまたま間違ってとか、何かの火が飛び火してとかいうのが原因だったりすることもあり得る。城で略奪騒ぎがあったというから、腹立ち紛れみたいなことかもしれない。
 ただし、焼けたといっても天主だけで、安土城全体が燃え落ちたわけではない。実際、安土城が廃城になったのは、豊臣秀次が近江八幡城を築城した1585年のことで、その間の3年間は織田家の居城となっていた。
 織田家にとって不幸だったのは、信長の嫡男で有能との声が高かった信忠を本能寺の変で失ったことだ。もし生きていれば、その後の歴史の流れは違ったものとなっていただろう。
 信雄は家康を頼って小牧長久手の合戦で秀吉と戦って敗れ(負けたというか丸め込まれた)、秀吉は信長の孫である三歳の三法師(秀信)を担ぎ上げて、のちに天下を統一を果たすことになる。
 安土城が存在していたのは、わずかに10年間だった。



安土の町を見下ろす

 天主跡からの眺めは、田園地帯と遠くに西の湖が見えるくらいだ。昔はすぐ真下あたりまで湖が来ていたはずだから今とは眺めが全然違っていただろう。
 城下町の面影はどこにもない。
 見てると寂しくなるので、早々に立ち去ることにした。



織田家供養塔

 信雄から四代の供養塔が並んでいる。もともとは長谷川邸があったところとされる。
 本能寺の変のあとも、織田家はすぐに滅んだわけではなく、豊臣の時代も、徳川の時代も続いた。本流は途絶えたものの、庶流は各地に散って守護となったり、外様大名などになったりしている。



西の湖の眺め

 行きとは別の道を通って帰ることにする。総見寺の三重の塔があるところからが一番眺めがよかった。こちらは民家が集まっているいるものの、当時の眺めに近いものがありそうだ。水辺にあるのと畑の真ん中にあるのとでは、受ける印象がまったく違ってくる。
 いずれにしても、現在の安土城跡から往時の安土城下の姿を想像するのは難しい。



三重塔

 城の中に寺院を建てたのは信長の安土城が最初だったとされている。ヨーロッパの城の中に教会があるというのを聞いて思いついたのだとか。それまで日本人にそういう発想はなかった。
 総見寺の祀り神は信長だ。天の神を信じない信長は、家臣たちに自分を神としてあがめることを要求した。
 本堂は幕末に焼けてしまったものの、三重塔と仁王門は創建当時のまま残った。甲賀あたりから移築したものらしい。



仁王門

 百々橋口へ至る石段の途中に仁王門がある。これも当時そのままのもので古い。
 無料だった頃はこちからも登れたようだけど、現在は出入り口を一つにしているため、こちらからは出ることもできず、結局大手道まで歩かないといけないので、遠回りになる。でも、三重塔と仁王門は一見の価値がある。

 安土城を訪れる前と後では、安土城だけでなく信長に対する認識も変えざるを得なくなった。信長の見方があまりにも一面的すぎた。
 信長という人は、非常識でエキセントリックな面ばかりを強調されるけど、実際には繊細だったり、慎重だったり、恐れを知る人間的な面も多分に持ち合わせた人物だったんじゃないか。
 安土城が信長の人生のひとつの集大成と考えると、言葉が変だけど、意外とこの世的な人だったんだなと思う。革新的ではあるけど、たがが外れてるほど非常識な人ではない。
 それにしても、何故安土だったんだろうという疑問が最後まで消えずに私の中に残った。この場所を日本の中心とするには、土地のパワーみたいなものが決定的に足りない気がする。単なる地理的条件や位置の問題ではなく、その場所が持っているエネルギー量といったものがあって、この場所はそれが強いとはどうしても思えなかった。信長が地の利というだけで居城を建てるはずはないから、当時はこの地に何か特別なものがあったのだろうか。
 ひとつ言えるのは、信長にとって安土城は終着点ではなかったということだ。城郭としてはひとつの集大成ではあっただろうけど、当然のことながらこの地点で自分が死ぬとは考えていない。もっとずっと先を見ていたはずで、安土城は通過点のひとつに過ぎなかっただろう。もしかすると、安土そのものをさほど重視していたわけではなかったのかもしれない。秀吉が大坂に拠点を置いたのは、信長がそう考えていたからだともいわれる。
 安土城に関していえば、あれは後世に残してはいけない城だったのだ。誰が燃やしたとかはたいして重要ではなく、消してしまうべきだという念によって消されたのだと思う。
 もし安土城が今でも残っていとしたら、安土の町は一大観光地になっていて、当然安土城は国宝になっていただろうし、世界遺産にもなっていたかもしれない。けど、秀吉にしろ家康にしろ、それは決して許さなかったはずだ。あの城は信長という存在の象徴でありすぎる。その影響は小さなものではない。
 わざと打ち消したのか、あえて忘れることにしたのか、いずれにしても秀吉も家康も信長のことにはあまり触れようとしなかったフシがある。あれだけの恩や影響を受けた二人だから、本来なら日本を代表する神社の一つも建ててしかるべきだったのに、まったくしていない。安土の城も町も捨てるに任せていたのだろう。あるいは、周到な家康のことだから、裏で動いて徹底的に痕跡を消していった可能性もある。
 信長が討たれたのは、神になろうとしたからだ。それはもうはっきりしている。実行犯や黒幕が誰だったかはさほど問題ではない。光秀にしても一つの役割を与えられただけだ。
 現在の日本は家康が作った日本だ。もし信長が作った日本だったら、今頃どんなふうになっていただんだろう。もっと面白い国になっていただろうけど、いい国になっていたかどうかは分からない。時代の必然が家康に天下を取らせ、今につながった。それが現実のすべてだ。
 安土城についてのあらたな発見が今後もあるかもしれない。それでも復元天主が作られることはないだろう。どんなに精巧に作っても、信長の天主は実現できない。下手なものを作るくらいなら想像しておくだけの方がいい。
 日本人にとって安土城とは何なのか。そんなことをあらためて考えることになった旅だった。
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線(琵琶湖線) 「安土駅」下車。徒歩約30分。
 ・名神高速「竜王IC」から約25分。

 ・入山料 700円(更に値上がりした模様)
 ・総見寺拝観料は別途500円
 ・駐車場 無料駐車場と有料駐車場(510円)があり
 ・営業時間 9時-17時(季節による変動あり)
 
 安土周遊
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 安土城天主・信長の館
 
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2013-08-08 08:24 | from ローカルニュースの旅