
Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
琵琶湖東岸の大津と彦根の間にある近江八幡は、やや地味な7番バッターのような存在と言えるかもしれない。かつての都で県庁所在地の大津と、国宝彦根城を擁する彦根とに挟まれて、関西方面からも中部関東方面からも素通りされてしまいがちだ。
しかし、行ってみるとこれがなかなか魅力的な町で、わずか2時間の滞在ながらとても好印象で、また行きたいと思わせるところだった。
今日はそんな近江八幡の魅力の一端でも伝えるべく、私が見てきた近江八幡について少し書いてみたいと思う。
この町は豊臣秀吉の甥であり養子でもあった秀次が作った町だ。
幼い頃からあちこちへやられては送り返され、拾われては捨てられるような人生を送った秀次。その実像は複雑で、どういう人物像だったのか、本当のところ分からない。罪のない庶民や動物を殺して喜んでるような残虐な人物だったと言われる一方で、文武両道の教養人だったともいわれる。
秀次が近江八幡へとやって来たのは18歳のときだった。小牧長久手の戦いで徳川家康にこてんぱんにされて命からがら逃げ帰って秀吉にこっぴどく叱られて、それを取り戻すべく四国征伐で武勲をあげた後、近江国43万石を与えられて、この地に近江八幡城を築いた。
信長亡き後、安土城の建物や民衆をこの地に移り住ませて城下町を作った。信長にならい、楽市楽座を開いて自由な商業都市を目指す。京都を参考に碁盤状に町を整備し、琵琶湖から水路を引いて商業のための水路を作った。
武将としての評価は高くない秀次だけど、わずか5年で城下町を作り上げて発展させたという功績は決して小さなものではない。
5年後、秀次は軍功を上げ、清洲城100万石城主となり、後任として京極高次が入城する。
秀吉の嫡男・鶴松が幼くして死去すると、養子となり、関白職を継ぐこととなる。
しかし、秀吉に秀頼という新たな息子が生まれたことで追い込まれ、最後は高野山に追放されたのちに切腹を命じられる。28歳だった。このときのいきさつはよく分かっていない。
近江八幡の人たちは、秀次の評価が低すぎると怒っているという。歴史の評価なんてものは誰に対しても一面的で、いいもんか悪もんか二つのうちのどちらかに分類されがちだ。学校の教科書に書かれていることや、ドラマで描かれることよりもう一歩、二歩踏み込んで実際の人物像に迫るということは、意味のあることだと思う。死んでからずっと不当な評価のままでは、あの世にいても悔しいだろう。近江八幡を訪れたときは、秀次の人生に思いを馳せたい。

安土桃山時代から江戸時代まで、この八幡堀は多くの商船などが行き来する活気のある水路だったという。最盛期は全長5キロくらいあったそうだ。
昭和に入ってからは陸路が発達して、この堀はうち捨てられたようになっていた。へどろの水は公害とまで言われ、埋め立てられる直前までいったらしい。地元の人たちが立ち上がってそれを阻止し、大がかりな清掃と整備で往時の姿をよみがえらせた。
現在では時代劇のロケ地として欠かせない存在となっていて、年間30以上のロケが行われているという。堀沿いには白壁の土塀や古い家が並び、昔の面影を現在へと伝えている。
水路を舟で巡るというのも人気で、近江八幡の観光名所の一つとなっている。もしこの堀が埋められていたら、観光地近江八幡は今とはずいぶん違ったものとなっていただろう。
この日はちょうど桜が満開近くて、観光客も多かった。こんなに人気の場所だとは思ってなかったので、戸惑ったくらいだ。

日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の門前には、近江八幡発祥の有名老舗菓子屋「たねや」がある。明治時代創業ということで、昔のスタイルを変えずにいる。
東京、横浜、大阪、名古屋の一流百貨店に店を構えているから、知ってる人も多いかもしれない。バウムクーヘンが有名だろうか。
もともとは江戸時代に作物の種を販売していたことから、そのまま種屋を屋号にしたようだ。
しだれ桜と店構えがよく合っていた。ここも時代劇のロケで使われることが多いそうだ。

近江八幡といっても最初どこへ行っていいのかよく分からず、とりあえずここだけは行っておこうと決めていたのが日牟禮八幡宮だった。
近江八幡という名前自体がすでに神社っぽくて、当然近江八幡神社があるのだろうと思ったら、検索しても出てこない。近江神宮というのがあるけど、これは大津にある神社で別物だ。調べてみると、日牟禮八幡宮が行くべき八幡宮だということが分かった。
駅から歩くと30分はかかるので、素直にバスに乗った。長命寺行きのバスで大杉町で降りる(10分で210円)。
創建や由緒は例によって帰ってきてから勉強した。
どこまで本当なのかよく分からないのだけど、神社の由緒では創建131年ということになっている。本当なら恐ろしく古い。平安時代、京都の石清水八幡宮から勧請して創建されたという説もあって、こちらの方が信憑性が高そうだ。
ただ、その前に前身となる神社があって、691年に藤原不比等が参拝したときに詠んだ和歌にちなんで比牟禮社と改められたという話もあるから、もともと古くからここに神社があったのは確かなのかもしれない。それ以前の古い時代の話はややこしいので省略する。
秀次以降は、近江商人の守護神として信仰を集めるようになった。
1600年には関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康も訪れている。
国の無形民俗文化財に指定されている二大火祭りの「左義長まつり」と「八幡まつり」でもよく知られている。
祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと・応神天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱。
楼門からして迫力がある。平安後期のものなんだろうと思う。
楼門の外に狛犬がいるというのは珍しい。

門をくぐると拝殿が出迎えてくれる。雰囲気があってかっこいい社殿だ。八幡神社ということもあって凛々しさが感じられる。

本殿のたたずまいなども、私が馴染みのある神社とはなんとなく雰囲気が違っている。日牟禮八幡宮特有のものなのか、この地方の特色なのか、どちらなんだろう。
祭神である三神の木像や、近江商人の西村太郎右衛門が寄進した安南渡海船額(あんなんとかいせんがく)などの重要文化財がある。

よく分からないけど舞殿の前に新しい石の上に金ピカの鳩が乗っている。

神社の隣にはロープウェイ駅があって、八幡山に登ることができる。山頂には秀次が築いた八幡城の跡地に、京都から移築した村雲御所瑞龍寺が建っている。
標高283メートルの山頂からは、近江八幡の町並や、琵琶湖を眺めることができるそうだ。私は時間がなくて行ってない。
ここで引き返して、近江八幡の町並散策をすることにした。

神社と道一本隔てた向かいには、白雲館と呼ばれる建物が建っている。和洋折衷の面白い形をしている。
明治10年(1877年)に建てられた八幡東学校で、古い貴重な建築物を保存展示するためにこの場所に移築された。
現在は、観光案内所兼おみやげ売り場として活用されている。見学は無料。

少し離れた場所にある八幡小学校。こちらは現役で使われている。小学生にしてみたら古い建物は不便なことが多くてちっとも嬉しくなくても、大人になればその貴重さが分かるようになるだろう。
最初に建てられたのは大正2年で、現在ものは再建されたもののようだ。スタイルは古いけど、古びているという感じはない。
ここはもちろん、勝手に入っていったら捕まる。昔は大らかだったんだろうけど、最近はそうもいかない。

池田町の洋館街も見所の一つだ。
近江八幡といえばメンソレータムで有名な近江兄弟社がある。その母体となったのが、キリスト教伝道団体の「近江ミッション」で、アメリカから来た英語教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズがその創設者だ。
ヴォーリズはコロラド大学で建築デザインを専攻した建築家でもあり、近江八幡に住んで多くの設計をしている。関わった建築物は1,600軒にもなるといわれている。
池田町の洋館街もその一つで、現在27軒が残っているという。
大阪心斎橋の大丸デパートや関西学院大学、神戸女学院、東京駿河台の山之上ホテルなどもヴォーリズのデザインだ。
このあたりは実際に人が住んでいる家なので、内部は見学できない。表から静かに写真を撮らせてもらう。

近江商人たちが作った城下町の一部が今でも残っている。保存地区に指定された新町通や永原町通には、昔の商家が立ち並んでいる。
電柱を地中に埋めるまでの徹底さは見られないものの、黒く塗ったり、雰囲気を壊すものをなるべくさらさないようにという努力はあちこちに見受けられる。
家屋の特徴としては、切妻造桟瓦葺り、平入の木造建築で、中二階建があるところも多い。格子や出格子といったお馴染みの姿に加え、塀から上に突き出すように伸びている見越しの松というのが近江の特徴となっている。うだつの上がる人たちの家なので、当然うだつも上がっている。
近江八幡は、日本遊歩百選に選ばれた町でもあり、このあたりも名所となっている。
西川庄六宅、森五郎兵衛宅、伴庄右衛門宅などが有名なところで、ヴォーリズ記念館などもある。

秀次が死んで間もなくすると、近江八幡は天領となり、商人たちは自由な商売ができなくなってしまう。しかし、これが結果的に近江に住む商人が近江商人と呼ばれる存在となるきっかけとなるから、不運は必ずしも不幸なことではない。
自由な商売ができる土地を求めて、近江の商人たちは外へ出た。最初は大津や京都などの近場へ、やがては北海道から江戸、安南(現ベトナム)やシャム(現タイ)まで進出した。
「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」を理念として、彼らは全国に活動を広げ、それはのちに大企業へとつながっていく。高島屋、大丸、伊藤忠商事、丸紅、東レ、日本生命、ワコールなどは、近江商人の流れをくむ企業といわれている。
2時間ドラマじゃないんだから、歴史のある町を2時間で味わい尽くそうなんて最初から無理な話だ。それは自分でも分かっていた。でも、2時間でも知ったことは少なくない。これまでまったく無縁だった町に縁ができたというだけでも大きい。
もう一度訪れる機会があるかどうかは分からないけど、今回行けなかったヴォーリズ記念館や長命寺のことを思うと、また行ってみたい気もする。心残りがあった方が次ぎにつながるということはある。自分の中で完結してしまうと、もう一度行こうという気にならない。だから、少しくらい未練を残した方がいいのだ、きっと。
思いのほかいい町だった近江八幡。滋賀巡りはさい先がよかった。次は隣の安土へ向かう。その話はまた次回。
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