奈良シリーズ本編の最終回はどうしても見たかった朱雀門で締めくくり

奈良(Nara)
奈良最終回-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 秋の奈良行き最終目的地は、ライトアップの朱雀門と決めていた。
 そもそも奈良へ行こうと思ったのは、この朱雀門の存在を知ったのがきっかけだった。もう3、4年前のことになる。ずっと行きたいいきたいと言いながらなかなか実現できずにいて、この前ようやく念願が叶った。名古屋-奈良間は、JRの直通電車が廃止されて、近くて遠い都となった。
 朱雀門へ行くのは苦労した。近鉄電車で行こうとすると、新大宮と大和西大寺の中間だから、どちらから歩いても20分くらいかかるし、バスは本数が少ない。特に夕方以降は朱雀門に一番近い「二条大路南四丁目」まで行くバスがあまりなくなってしまう。このときはタイミングも悪かった。仕方がないのでそのだいぶ手前の二条大路南1まで行くバスに乗ったのだけど、夕方の大渋滞にはまり込んでしまってバスがまったく動かない。すんなり行けば10分のところを30分以上もかかってしまった。帰りはもっとひどい目に遭うことになる。
 そんな苦労をして行った朱雀門だから、ぜひここに書いて無駄足じゃなかったということにしなければならなかった。勉強するのにも時間がかったということもあるのだけど、最後に持ってくるのがふさわしいネタでもある。奈良シリーズは今回でようやく最終回となる。

 なんと(710年)見事な平城京、そんなふうに年号を覚えた人も多いだろう。鳴くようぐいす平安京に比べるとずっとマイナーではあるけど、奈良の都平城京も日本史の中で重要な意味を持つ都だったのは間違いない。
 ところで平城京の読みをわたしたちの年代は「へいじょうきょう」と習った。なのに、近年は「へいぜいきょう」と仮名が振られている。最近そうなったらしい。
 奈良時代の昔は、「平城」を「なら」と読んで、「平城宮」は「ならのみやこ」と呼んでいたというのが定説となっている。ならはならすに由来して、平坦な場所にある都ということで、ならのみやこといったというのが有力だ。
 すでに長くなりそうな予感がしてきたけど、ここで平城宮遷都の前後の動きについて復習しておきたい。平安以前に関しては意外とあやふやな記憶になってるという人も多いんじゃないか。
 女王卑弥呼が邪馬台国をおさめていたのが230年代から240年代にかけてで、ようやく国家の基本的な形ができてきた時代だ。
 大和国として一応の統一が見えてくるのが500年代で、574年に聖徳太子が生まれている。この時代が飛鳥時代の始まりだ。
 法隆寺が建ったのが607年、遣隋使と、のちの遣唐使によって中国との本格的な交流が始まる。
 645年、大化の改新。
 694年に飛鳥から藤原京に都を移す。
 平城京への遷都は707年から段階的に行われ、710年に遷都が完了する。
 その後、途中で「恭仁京(くにきょう)や「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ都が移ったりしたもののまた戻り、784年に長岡京へ遷都されるまで、平城京は日本の都であった。

 平城宮は、平城京の北部中央に位置していて、東西1.3キロ、南北1キロだった。
 唐の都長安や北魏洛陽城など手本にした碁盤状の作りになっていて、平安京のモデルにもなっている。ただし、東部分のでっぱりなど、平城宮特有の特徴も備えていることなどから、日本オリジナルの計画都市だったのではないかという説もある。
 天皇の住まいである内裏(だいり)や、政治・儀式の中心である大極殿・朝堂院などの建物が建っていた。
 四方には高さ5メートルの築地塀がめぐらされ、それぞれ3つの門を備えていた。南の中央にあるのが正門である朱雀門だ。
 平城京と平城宮を一緒だと思うと混乱する。平城京というと都全体のことを指し、平城宮というとその中の都施設のことをいう。私も最初ごっちゃになっていて、勉強している途中で訳が分からなくなった。平城京は甲子園球場30個分という広大な都のことで、平城宮は皇居と国会議事堂と官庁街が凝縮されたような施設といえば分かりやすいだろうか。
 朱雀門を出て南に真っ直ぐ伸びているのが朱雀大路で、その突き当たりには羅城門が建っていた。それが平城京の南端になる。
 朱雀大路によって分けられた右京と左京は、それぞれが碁盤の目のように整然と区画された町が形成されていた。最盛期には10万とも20万ともいう人々が住んでいたという。ただし、大部分は下級役人や一般庶民で、貴族は数百人だったそうだ。シルクロードの終点ということで、都には唐や新羅、インド人なども多かったらしい。
 平城京の主な寺としては、薬師寺、大安寺、興福寺、元興寺の四大寺などがあった。東の東大寺、西の西大寺、ちょっと離れた法隆寺を加えて南都七大寺という呼び方もされた。南都というのは北の長岡京に対する南の都という意味だ。

 都が平安京に移った頃には、平城京はうち捨てられ、田んぼになっていた。都を移したら、人も建物も物も一切合切移動させてしまうという昔の日本人の引っ越し体質というのは、今となってはちょっと信じられない。それは戦国時代まで続くことになる。日本人が定住ということを本当に考えるようになったのは江戸時代になってからだ。
 江戸時代の末になって、ようやく平城京のことを思い出した人たちがいた。藤堂藩の奉行所に勤めていた北浦定政たちによって実測調査が行われ、平城京の位置と規模が判明することになる。しかし、早い段階で気づいたのは幸いだった。その後この土地一帯の大部分は国の所有となり、保護されることになるからだ。
 今は思いっきり近鉄電車が斜めに横切ってしまっているけど、平城京跡の大部分は保存されている。世界遺産にも登録されたから、これ以上開発されることはない。
 現在は2010年の遷都1300年に向けて様々な復元作業が進められている。目玉は第一次大極殿正殿だ。外から覆いをかぶせて、一部しか見えないようになっているのが小憎らしい。これが完成してお披露目となったら大きな話題になるだろう。
 1998年には朱雀門の復元がなされた。ただしこれは想像復元に過ぎない。資料は何も残っていないからだ。だから、実際の朱雀門と復元された朱雀門は違っているのかもしれない。相当な年月と研究を重ねて作られているそうだから、違っていたらがっかりだろう。
 復元された朱雀門は、間口25メートル、高さ25メートル、奥行き10メートルの入母屋造りの二重門。国産ヒノキを3,000本使ったというから気合いが入っている。材料費だけでも相当な額だ。
 現在、見学は無料で、夜間はライトアップをしている。闇に浮かぶ朱雀門はなんとも幻想的で、これを見るだけでも奈良へ行く価値があると思った。
 全体の発掘調査はようやくまだ半分とのことだ。これから何かあっと驚く新発見も出てくるかもしれない。これまでに出た出土品などは、平城宮跡内部の「平城宮跡資料館」や「遺構展示館」などに展示されている。こちらも無料で見られるのだけど、夕方4時半くらいまでしか開いてないので私たちは見られなかった。朱雀門から向こうへも夕方には閉まって行けなくなる。
 東院庭園なども復元されているので、やはり行くなら明るい内から行くべきだったと、帰ってきてから悔やんだけど遅かった。2010年にもう一度行こう。大極殿もぜひ見なければなるまい。

 あをによし 奈良のみやこは 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 小野老が万葉集で歌ったような奈良はもうない。けど、華やかかりし頃の面影はなくとも、奈良は1300年経った今でも魅力的であり続けている。
 奈良へ行くときは肩肘張らず、ありのままの自分でいられる気がする。京都や鎌倉を好きかと問われるとちょっと考えていろいろ言いたくなるけど、奈良は好きですと即答できる。友達みたいな気軽さで。その場を支配している空気感と同調するいう言い方もできるかもしれない。
 奈良シリーズは一応これで完結となる。あと、捨てるにはしのびない写真が何枚か残ったので、番外編としてそのうち載せることになると思う。
 今回見て回った分に関してはこれがすべてだ。長々とおつき合いいただきありがとうございました。また新しい奈良シリーズで会いましょう。
記事タイトルとURLをコピーする
コメント
コメント投稿

トラックバック
  • »
  • »
  • »
  • 奈良シリーズ本編の最終回はどうしても見たかった朱雀門で締めくくり