よそ者が短時間垣間見た渋谷は尾崎豊ではなくコブクロが似合う街だった

東京(Tokyo)
渋谷の夜-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 何度も東京へ行っているのになんとなく行きそびれている場所がいくつかある。渋谷もその中の一つだ。訪れるのが遅すぎた感もある。尾崎豊が「Scrambling Rock'n'Roll」を歌ってからすでに23年近い歳月が流れていた。
 Scrambl交差点では心を閉ざし解りあうことがない、と10代で歌った尾崎豊は、生きて40代になっていたら今頃どんな歌を歌っていただろう。彼がこの世を去ってから、もう15年以上になる。
 2008年の渋谷に、もはやあの頃の熱や感傷はない。きらびやかで乾いているのは同じだとしても、乾きの質が違ってきているように思う。一番変わったのは、私たちは幼いまま若さを失い、昔みたいに無邪気でいられなくなったところかもしれない。渋谷という街が持つエネルギーもまた、変容し続けているのだろう。
 尾崎豊がうろつき駆け回っていた渋谷は、今はもうない。

渋谷の夜-2

 109、パルコ、センター街、道玄坂。表参道に代官山、恵比寿、原宿。代々木公園、明治神宮、甲州街道。ファッションと商業の街、ビジネス街やオフィス街、住宅街などが複雑に入り組んだ多彩な顔を持つ渋谷という街は、空襲の後の戦後復興で大きく様変わりした。
 終戦からほんの10年、昭和30年代には早くも高層ビルが続々と建設され始め、商業地区とオフィス街が両輪のように発達していった。中でも東急の進出が果たした役割は大きかった。昭和29年に東急会館ができ、昭和31年に東急文化会館が建てられると、渋谷は東急の街として発展していくことになる。
 昭和39年の東京オリンピックを機に、道路や鉄道網が整備され、街並みは大きく変貌を遂げる。渋谷は新宿、池袋と共に早くから副都心化が進められた街だった。
 昭和40年代は、東急対西武という図式になっていく。昭和43年に西武百貨店ができると、昭和48年にはパルコ、ロフトと続き、それに対して東急は109、東急ハンズで対抗した。
 渋谷駅、原宿を中心に若者の街としての色合いを強めていったのは、昭和50年代のことだ。原宿の歩行者天国では竹の子族が踊り、渋カジと呼ばれるファッションも記憶に新しい。尾崎豊が青山学院に通いながら青春時代を過ごしていたのもこの頃だ。
 平成になってからの渋谷はどうなのだろう。Bunkamuraができたのが平成元年。それ以降も休みなく変わり続けているのだろうけど、何がどう変わったのかは見えてこない。平成ももう20年になるというのに、この時代は形容が難しい。時代の色や肌触りのようなものは、ずっとあとにならないと分からないものかもしれない。
 歴史をずっとさかのぼれば、この土地は海に浮かぶ島だった。それでも早くから縄文人が住んでいたことが分かっている。先史時代の遺跡が30ヶ所以上見つかっていて一部は保存されているし、初期の古墳跡からはたくさんの遺物や人骨などが発見されている。
 奈良、平安時代はうち捨てられた土地となってほとんど人が住んでいなかったようだ。平安末期になって武家が台頭してくると、源氏の一派が移り住むようになる。
 鎌倉から室町、戦国時代にかけては地方豪族の支配下にあったとされ、鎌倉街道も通るようになっていた。
 江戸時代になるとこのあたりは幕府の直轄地となり、人口も増え、少しずつ賑やかになっていく。武家屋敷が点在し、原宿あたりは早くから開けていたようだ。
 明治時代は、住宅街として発展する。明治17年に山手線が開通し、東京市電、玉川電鉄と連絡したことで住むのに便利な街となった。昭和に入っても、東横線、帝都電鉄、地下鉄の東京高速鉄道が開通し、ますます交通の便がよくなっていく。

渋谷の夜-4

 話は現代に戻る。
 人が賑わう駅前に、緑色の電車が置かれている。かなり唐突な印象を受けるけど、これは何なんだ。待ち合わせの新たなスポットか。
 帰ってきてから調べてみると、昭和29年に製造された通称アオガエルと呼ばれた電車で、ここにモニュメント兼待ち合わせ場所として置かれることになったんだそうだ。2006年というから最近のことだ。
 ただ置かれているだけではなく、中に入ることもできるようで、寒い日などは待ち合わせの人がこの中にたくさん入って満員電車のようになっているとか。なるほど、そういう使い道もあったか。内装はほぼ当時のままというから、電車好きにはたまらない。頼んでもいないのに一人でアナウンスや出発の合図などをしている人もいそうだ。
 この写真は、渋谷の動と静が表現された写真になったと思う。目的地に向かう人と、誰かを待つ人と、そのコントラストが渋谷らしさの特質の一つだ。

渋谷の夜-5

 何気なく撮ったスナップは、いかにも東京というワンシーンになった。地方のどの街でも同じ光景はある。でも、東京は独特の孤独感が支配している。あんなにも無数の人が行き交っているのに、友達同士、恋人同士が楽しそうにしていても、どこか孤独の影が見え隠れする。それは必ずしも悪いことではないけれど。

渋谷の夜-6

 私が抱く渋谷のイメージは、この写真のようだ。夜なのに明るすぎてノイジーで、混沌としたエネルギーが小さく弾けて不協和音が街全体を包み込んでいる。その中に自分が入ってしまえば大音響の音楽の中のように感覚が麻痺してしまい、客観的な場所に身を置くとざわめきが落ち着かない。
 闇には孤独と夢を織りまぜ おびえた心のアクセルふかしても 街からは逃げられやしねえよ、と尾崎豊は歌った。
 ここに集まってくる誰もがみんな自分自身で、他人に対して無関心であることで心地よさを感じているようだ。東京生まれも地方出身者も、みんなここでは主役であり訪問者でもある。渋谷は若者の街だなどという単純な縛りではこの街は捉えきれない。もっと多様で、微妙なバランスを保っている。
 この街は、他のどの街にも似ていない。

 ハチ公が主人の上野英三郎教授の帰りを待っていた頃の渋谷はどんな風景だったのだろう。1925年といえばまだ戦前だ。戦後とはまったく違う、のどかな駅前だっただろう。
 主人の急逝後、ハチはいろいろな家をたらい回しにされている。預けられた先で悪さをしたり畑を荒らしたり、ハチがもとで住人同士のいさかいが起こったりしたからだ。
 ハチが渋谷駅でたびたび見られるようになったのは、預けられた先が駅の近くで、かつてここまで主人を出迎えていたからだった。最初はどこの野良犬だということでいじめられたりもしたそうだ。それをあわれに思った斉藤弘吉という人がハチのことを新聞に投書して、それで世間一般に知られるようになり、それ以来みんなに大事にされるようになったという。
 1935年、普段は行かない渋谷川の稲荷橋付近の路地で死んでいるのが発見された。死因はフィラリアで、13歳だった。葬儀は盛大に行われたそうだ。
 銅像が造られたのは1934年で、そのときはまだハチは生きていた。ハチも銅像の除幕式に参列している。
 第二次大戦でハチの銅像は戦争のため持っていかれて、現在のものは戦後の1948年に作られた二代目だ。1989年の渋谷駅拡張工事で場所も向いてる方角も変わった。駅前広場の中央に位置しているイメージがあったのに、こんな端っこの方に追いやられているのを見てちょっと意外な気がしたのはそういうことだったのか。

 私の中にある渋谷は、尾崎豊とわかちがたく結びついている。たとえば、「街の風景」などは渋谷の街を強く思わせる。
 けど、あれから時は流れ、この街に合う音楽も変わった。21世紀、平成20年の今、私が思う渋谷のテーマソングは、コブクロの「蕾」だ。あの時代の激しさは失われて、少し優しい曲が似合うようになったと感じた。
 今日の記事は、コブクロの「蕾」をBGMに流したかった。もしよければ、曲を流しながら写真を見てみてください。
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