
映画『ドライブ・マイ・カー』(公式サイト)を観て(WOWOWで)、原作小説の『ドライブ・マイ・カー』(短編集『女のいない男たち』の中の一編)を読んだ(図書館で借りて)。
村上春樹は20代の頃から好きで(文章の影響も強く受けている)、ほとんどの作品は読んでいるつもりだったのに、この短編集は未読だった。
映画も小説もどちらも感想にならない作品だなという感想で、その心情を上手く説明できない。
村上春樹のどこが好きかといえばその文体で、内容は二の次だったりする。あの文体を映像に移し替えるのはたぶん無理で、トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』もなんだこりゃという作品だった。
ただ、映画『ドライブ・マイ・カー』は小説を移すのではなく、小説を下敷きにというか、設定だけ借りて全然別の方向を向いた作品に仕上げていて、それが功を奏した。
内容は似て非なるもので、手触りというか肌触りがまるで違う。物語の着地点も。
映画版は主人公に心情を重ねて観るとひどく痛みを伴う。
奥さんはなぜあんなことをするのだろうとやりきれない気持ちになったのだけど、ああ、そうか、幼い子供を亡くしたときに、彼女の心も夫婦関係も壊れてしまったんだと気がついて少しだけ腑に落ちた。
映画の紹介で主人公の再生の物語というようなことをいっているけど、亡くなった奥さんも主人公も再生などしていない。村上春樹の言葉を借りるならば、すでに”永遠に損なわれてしまっている”のだ。二度と元には戻らない。
『ドライブ・マイ・カー』あるいは村上春樹作品を再生の物語などと捉えているとそれは大きな勘違いということになる。損なわれてしまった我々はその後どう生きればいいのかが主題となっている。
そのためには過去を忘れ、もしくは過去を捨てて前へ進むしかない。時間は常に流れている。
ただし、過去がなかったことにはならない。痛みは痛みとしてどこまでも抱えていくことになる。
映画『ドライブ・マイ・カー』の感想で感動したといっている人の言葉にひどく違和感を抱く。あれって感動するような作品だろうか?
感想は人それぞれでいいのだけど、少なくとも感動を求めて観るような映画ではないと思う。原作小説も同じだ。
映画版の成功が村上春樹に何かをもたらしただろうかと考えると、それはあまりないような気がする。映画版の成功は(外国で賞を獲ることが成功とするならば)、濱口竜介監督や西島秀俊をはじめとする出演者たちの功績に他ならない。
映画を観た後に原作小説を読むと、多くの人は拍子抜けすると思う。元ネタってこんな小ネタだったの、と。この短編をよくぞ3時間の長編映画に仕上げたものだと感心するだろう。
映画版も、小説も、個人的にはおすすめしない。避けて通れるなら避けた方がいいような気もする。特に主人公と同じような立場の中年男性はある種の覚悟をして観た方がいいかもしれない。