佃島に見た今後の日本が向かうべき新旧の鮮やかなコントラスト風景

東京(Tokyo)
佃島-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/640s(絞り優先)



 越中島から相生橋を渡ると、日本初の埋め立てて地である佃島(つくだじま)にたどり着く。今でこそ東京湾は埋め立て地だらけでどこが島でどこが本来の陸地か判然としなくなっているけど、一番最初に作られた人工の島が佃島だった。
 隅田川の河口に自然に出来た三角州に人が住むようになったのは江戸時代になる前のことだ。本能寺の変や大阪の陣で世話になった摂津の漁師たちを徳川家康が呼び寄せてやってきた33人(もしくは34人)が住むようになったのが始まりだった(1590年)。家康は漁民たちに優先的に漁の権利を与えて保護したものの、もともといた地元民とモメたため、三角州を埋め立てて島を作って住むようになり(1644年)、故郷佃の名を取って佃島と名付けたのだった(もともとは佃嶋(つくだしま))。

 昭和の終わり頃まで、佃島は東京でもっとも古い町並みが残る場所と言われてきた。関東大震災でも第二次大戦でも焼けなかったからだ。けれど、昭和から平成になる頃、石川島造船所跡地に大川端リバーシティ21が作られたことで風景は激変してしまった。もはや古い時代の面影はわずかに残るのみとなった。今回はそんな佃島を歩いてみよう。注意深く探してみれば、今でも昭和が少しだけ顔をのぞかせる。痕跡のような手がかりをつなぎ合わせてみれば、江戸の昔に思いを馳せることもできるかもしれない。
 赤い佃小橋を渡れば、目指す佃一丁目だ。

佃島-2

 船を引き入れるための入船堀が掘られていて、今でも数艘係留されていた。水路は隅田川にある住吉水門によって水位調整が行われている。現在でもわずかに漁は行われていて、佃島の漁師は正月になると毎年、目白と下落合にある徳川家に東京湾で獲れた魚を献上しているんだそうだ。
 船といえば、佃島と対岸の湊町の間には昭和39年(1964年)まで、佃の渡しがあって、一日に70往復もしていたそうだ。佃大橋が架かって以来廃止されてしまったけど、その頃まではまだここは島という感覚が残っていたのだろう。

佃島-3

 もう少し古い町並みが残っているのではないかと期待したのに、行ってみると思った以上にこぎれいな町になっていた。平成ももはや19年になる。昭和は遠くなりけりだ。せめて10年前に訪れていたら、もっと昭和の名残があったんじゃないかと思う。
 けど、自分勝手なイメージをふくらませて訪れる無責任な観光客の感傷よりも、住んでいる人たちの利便性が優先するのは当たり前の話だ。暮らすなら古い家や道より新しいものの方がいいに決まってる。

佃島-4

 それでも歩いていると、ポツリ、ポツリと古い家が現れる。これは昭和だねぇとうならせるものが。ネットの佃島紹介ではこういう古い建物の写真ばかりを並べてるからこんな家並みが続いているのかと思うけど、実際はそうじゃない。基本的に佃島もすっかり平成の姿をしている。わずかに昭和が消え残って点在しているだけだ。それでも、東京駅から直線距離にしてわずか2、3キロのこの場所に、少しでもこんな風景が残っているというのは奇跡的と言うべきかもしれない。
 大栄マンションというところの1階には日の出湯という銭湯があって、まだ営業しているようだった。マンションと煙突が一体化した光景はちょっと面白い。

佃島-5

 これまた古い木造の家だ。間口が妙に狭いけど、奥行きはあるのだろうか。京都の町屋を思わせる。これだけ隣との間が狭かったら地震で倒れることはないだろう。隣が倒れてきたらひとたまりもないけど。

佃島-6

 佃島といえば佃煮発祥の地としても知られている。今でも創業150年ほどの佃煮屋が3軒営業している。写真に写ってるのは「丸久」で、一番古い「天安」が有名のようだ。他にも「田中屋」というのがある。味付けが微妙に違って、それぞれのひいきさんがいるとのことだ。
 もともとは漁師たちが船で食べるときの携帯食や保存食として、小魚をしょう油で煮詰めたものを作って持って行ったのが始まりだった。それを売るようになったところ評判となって、以来佃煮と呼ばれるようになった。店の前に行くと、しょう油の香りが漂ってくる。

佃島-7

 人が一人やっと通れるくらいの路地が今も残っている。神楽坂にもこんなところがあったなと思い出された。ただの狭い通路というのではなくて、生活感のある路地というのも近年消えつつあるものの一つだ。これだけ隣り合っていれば近所づきあいを避けて通るわけにはいかない。
 別の路地には佃天台子育地蔵というのがあって、家の間のものすごく狭い空間に地蔵堂がはまり込んでいた。地蔵堂が先にあって家が取り込んでしまったのか、家のあるところに無理矢理地蔵堂を作ってしまったのか、いずれにしてもすごいことになっている。ご神木なのか、太いイチョウの木の幹が家の中に生えて突き抜けてるのだ。4畳半の部屋に地蔵堂とイチョウの木が同居してるところを想像してもらえれば大きく間違ってはいない。

佃島-8

 大阪の船乗りの心のより所といえば、やはり住吉さんだろう。佃の漁師たちが佃島に永住すると決めたとき、住吉の神様もここに持ってきた。創建は1646年。
 当時の社殿は1866年の火事で全焼してしまい、今のものは1870年(明治3年)に再建されたものだ。
 鳥居には陶製の扁額がかかっている。入り口の鳥居は緑色をしている。これは当時からだろうか。海に向かって建っているから、漁師たちは漁の行き帰りにここをくぐって航海の無事と漁獲を願ったり感謝したりしたのだろう。

佃島-9

 佃島も、隣の月島ほどではないけれど観光地となっている。このときも、若手の女性陣がクラシックカメラで古い家の写真を撮っているのを見かけた。高いレンズをつけたメンズたちも。あまりデート向きの場所ではないけど、写真を撮るには魅力的な町だ。
 隣の月島にも古い町並みが残っている。月島は明治になってから埋め立てられた比較的新しい町で、あちらは関東大震災で大きな被害を受けた。ただ、第二次大戦ではたいして重要なものがなかったために空襲にあわずに戦災をまぬかれた。それで戦前のものが少し残った。
 佃一丁目に江戸の面影を見つけるのは思ったよりも難しかった。昭和の名残さえも残りわずかとなっている。この先もどんどんかつての姿は姿を消していくことだろう。なくしてから気づく大切なもののなんと多いことか。古いものを懐かしむなんてセンチメンタルなことだけど、なんでもかんでも西洋式に新しければいいというものでもない。明治以降の140年、日本人は日本のいいところを見失いすぎていた。そのことに気づいたのは、ほんのここ10年、20年のことじゃないか。私たちが子供の頃もまだ、古いものよりも新しいものの方が絶対的に正しいんだという気分が支配していた。
 21世紀は古き良き日本を再発見するための世紀となるかもしれない。佃島の木造の家と背景の超高層マンションのシュールなコントラストを見るとき、これが日本の向かうべき一つの方向性なのかなと思ったりもしたのだった。
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