森を歩きながら考えは地球を超えて宇宙まで行って帰ってきてただいま

森/山(Forest/Mountain)
森の光と影-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/10s(絞り優先)



 初夏の海上の森は、強い光と影のコントラスト。生い茂った葉で光がさえぎられた森の道は、暑いけど涼しい。頬に流れる汗を吹き来る風がなでていく。
 蝉にはまだ早く、夏鳥たちの声だけが森に響いている。日陰では歩くたびに白い蛾が足もとを舞い、ときどき思い出したようにトンボが飛びすぎる。この時期の森は花が少なくて、目にはいるのはただただ緑ばかり。
 行き交う人の姿もなく、森の中では自分はあくまでも訪問者でしかないことを思い知る。森の中では森の生き物たちが主役だ。

森の光と影-2

 光のあるところに必ず影が生まれ、影があるから光の存在を知ることができる。私たちは光と影の両方を知ろう。どちらかが欠ければ片方も存在できなくなってしまう。世界は決して光だけで存在することはできないのだ。

森の光と影-3

 木を見て森を見ず、森を見て木を見ず。こんなにたくさんの樹木や草花は必要ないと思うかもしれないけど、多くのものが集まることで名前が変わるものがあり、違う意味を持つようになるものがある。たとえば木が林になり森になるように。人が家族になり国民になり人類になるように。木なんて少しくらい切り倒してもいいじゃないかというのは、人間なんて少しくらい切り捨ててもいいではないかというのと同じようなものだ。一本ずつに意味はなくても、集まって存在している一本いっぽんが全体を形作っている。
 この世界に無駄なものはない。無駄なものがあるとすれは、それはこの世界そのものだ。

森の光と影-4

 青は藍より出でて藍より青し。水面に映った青空は空の青空よりも青い。私たちは実像よりも虚像から多くのものを得ている。小説を読んで何者かを目指したり、テレビの向こうに恋をしたり、現実よりも美しい世界に溺れたり。
 鏡に映る自分の顔は本当の顔ではない。
 青い水面を手ですくってみても、それは青じゃない。

森の光と影-5

 シダの森を見て、共生ということを思う。地面近くの暗いところでも生きられる木と、光に向かって伸びなければ生きていけない木が同じ場所で生きている。太陽の下でしか生きられない人間と、日陰でしか生きられない人間がいる。同じ地球の同じ時間に生きていて、それもまた共生というものだ。昼を生きる人間と夜を生きる人間がいなければこの世は回っていかない。どちらかが主でも従でもない。それぞれが自分の場所で生きているだけだ。
 花々は季節によって交代で生きる。時期を変えて、同じ場所で。それもまた共生だ。みんなが春に咲いてしまったら共倒れになってしまう。人も全員が同じ一番を目指したら、ひとり勝ちでそれ以外は負けになってしまう。私たちは同じ場所を共有しながら少しずつズレて生きていくしかないのだ。

森の光と影-6

 化学薬品が流れ出したような水たまり。でも、これは自然の成分が生み出した色かもしれない。人が何かを捨てるような場所ではないから。
 ときに自然と人工は区別がつかない。人は自然をまねてあらゆるものを作ってきて、ときどき互いが追い越し合ってしまうことがある。人工が自然を超え、自然が人口を超える。人間の叡智と、自然の驚異。どちらも感嘆に値する。
 地球上のどこからどこまでが自然でどこからが人工なのか、もはや境界線は曖昧だ。地球外から見た地球は、それが野生のものであろうと人類が作ったものであろうと関係ない。生命が溢れる惑星は、あらゆる意味で奇跡に満ちている。長い歳月の間に人間は地球の一部となった。大昔海底に沈んだ船が自然と同化するように、歳月が自然と人工を混ぜていく。
 人間が作った森も、100年経てば自然の森になる。地球が生み出した人類という存在は、他の野生動物と同じく自然のものであって、その自然の人間が作ったものは自然の一部だ。人類はもはや、偶然生まれ落ちた徒花的な異物などではない。
 人間が作ったものをすべて自然物として捉え直したとき、今までとは物の見方も変わって、地球との共存の道も見えてくるはずだ。自然破壊さえも必ずしも悪というわけではない。厳しい生存競争の中で、全体としてよりよい世界を目指していくことを考えるべきだ。我々は勝者でも敗者でもなく、一部なのだから。

森の光と影-7

 青空と雲と月と飛行機雲と。もはや当たり前の光景となったこの取り合わせも、100年前までは誰も見たことがないものだった。月は変わらずそこに浮かんで満ち欠けを繰り返してきたけれど。
 この景色も永遠ではない。100年後はたくさんの車が空を飛んでるかもしれないし、透明なチューブの中を列車が走っているかもしれない。月はどこかへ飛んでいってしまって、代わりに人工の月が地球の周りを回ることになったりする可能性だってある。太陽の輝きも永遠ではない。あと50億年もすれば寿命が尽きるし、その前に膨張が始まって10億年もしたら地球は暑くて今の生物はすめなくなってしまう。
 私たちはどこへ向かい、今何をすればいいのか。その問いの答えはどこにも存在していない。何故ならそれはこれから作っていくものだから。毎日は無意味に過ぎていくように思えて意味があり、意味があるようでいて考えを進めていくとどんどん意味は小さくなる。海を見たり、星を眺めたりして自分の小ささを思い知っているくらいでは全然足りない。宇宙には1,000億掛ける2,000億個の太陽があって、それぞれに太陽系の惑星があって、その他の星々がある。時間軸も一種類ではない。その数字はあまりにも膨大すぎて絶望さえできない。
 意味不明で不確かすぎる現実の中で確かなものがあるとすれば、それは自分の意識だ。自分自身の存在とこの世界の認識する能力と言い換えてもいい。その意識が足もとの小さな花から広大な宇宙までもを同時に捉えることを可能にしている。その振幅の大きさに人間の偉大さがある。存在は小さく、今は愚かでも、空想する力こそが可能性だ。
 自分の幸せを求めることも大事。この世界をよくしようすることも必要。それと同時に、この宇宙の現実を知ることもまた大切なことだ。知るための手掛かりは日常のあらゆる場所に潜んでいる。森にも海にも空にも街にも本にもテレビにも。大きなことばかり考えていては自分自身に対して無責任になるし、自分のことばかりではこの世界の役に立てない。
 投げやりにならないことだ。自分ができないことや分からないことに対して。最後まで誠実に生きること、その積み重ねが遠い未来へとつながっていく。最後の最後、あらゆる存在が幻だったとしても、私たちは笑って終わらせよう。だって今、こんな素敵な地球で暮らせているのだから。これ以上、一体何を望むというのか。こんな楽しい夢はない。いつまでもずっと続いて欲しいとさえ思う。
 そんなことをつらつらと考えながら森を歩いてた私のことを、海上の森2005番地に住むモリゾーとキッコロはどこかで見てたかな。
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