
尾張旭市桜が丘町西に高龗社(たかおかみしゃ)という小さな神社がある(地図)。
社は小さくささやかなものながら鳥居は標準サイズの立派なものだ。
与えられた境内地はわりと広めで、民家が二軒は建つくらいの敷地だ。
場所を言葉で説明するのがちょっと難しい。
名鉄瀬戸線印場駅(地図)の北に良福寺というお寺がある。その良福寺の東の道を北へ進み、自転車で行くとかなりしんどい坂道を上がると行き止まりになる。そこを右に折れ、すぐを左に折れた左手に神社はある。
駐車場はないものの、短時間なら路上駐車しておけるスペースはある。
今でこそこのあたりは住宅地になっているものの、明治時代くらいまではほとんど民家のない丘陵地だっただろう。社は小山の山頂と呼べるような場所に祀られ、八竜社と称していた。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の印場村の項に「八龍社 前々除」とあることから、1608年の備前検地以前からあったことが分かる。祀られたのは少なくとも江戸時代以前に遡るということだ。
丘陵地で作物を作るにはあまり適さなかっただろうことは現地に赴いてみれば明らかで、今昔マップ(Web)の明治中頃(1888-1898年)を見ると、たくさんのため池があったことが見て取れる。
龍神は雨を降らせる神とされていたから、村人たちが雨乞いのために龍神を祀ったのが始まりだったろう。一説では丹生川上神社から勧請したというのだけど、そこまで大げさなことではなく単に村人が雨乞いのために龍神を祀ったと考えた方が自然だ。
八龍というと、すぐ西の大森村にも八龍神社があった。大森八龍という町名が今も残り、八竜緑地の中に八龍神社は現存している。
八龍神というのが具体的に特定の神のことをいっているのか、そうではないのかはよく分からない。名古屋にも八龍と名のつく神社は何社かあって、それらはある共通の概念を持っていたのかもしれない。
尾張地方にとって”八”というのは重要なキーワードで、それとも関係しているかもしれない。八剣、八雲、八幡、八重、八坂など、八は明らかに何かを示している。
社名が高龗社になったのは明治以降ではないかと思う。明治の神仏分離令を受けて神仏習合を廃して高龗社としたのだろう。
小さな規模ながら神社本庁に所属している。現在は印場にある澁川神社(Web)の境外末社という扱いになっている。
高龗(たかおかみ)というのもよく分からない神様で、『日本書紀』の一書ではイザナミが火の神カグツチを生んだのが原因で死んでしまったことに怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したとき化成した神の一柱として登場する。
『古事記』や『日本書紀』の別の一書では闇龗(くらおかみ)の名が出てくる。
高龗は京都の貴船神社(Web)の祭神としてよく知られている他、丹生川上神社上社(Web)でも主祭神として祀られる。
龗は龍の古語とされ、闇龗を谷、高龗を山として対の関係で祀る場合もある。

全景はこんな感じ。住宅地の中でけっこうな違和感がある。
まだ全体に新しさが残っているから、ここ十年くらいの間に作り直されたものだろう。
桜ヶ丘の住宅地が作られたのはもちろん戦後のことで、町名は桜が丘町西ながら住宅としてはつつじヶ丘団地となっている。
坂道が厳しすぎて自転車乗りには厳しいところだ。


古くは雨乞いのためにここまで馬を上げて祈願したそうで、それが簡略化されて飾り馬を奉納する祭祀を行っていた。この地方では”おまんと”(馬の塔)と呼ばれ、あちことで行われていた。
昭和初期まで続いていたようだけど、今は途切れてしまった。
5月と9月の第一日曜日に例祭が行われている。

もう少し木を植えて囲った方がいいと思う。今は晒され感が強い。

社号表の裏に平成十九年の日付があるから、これが改築された年かもしれない。
2007年から始まった尾張旭市の神社巡りが13年かかってようやく完結した。あまりにも長くかかってしまったのだけど、その間に廃社などなくてよかった。
澁川神社は一度火事で焼けて再建された。真新しい社殿を見たときは新鮮だった。
その後、名古屋の神社巡りを本格的に初めて、名古屋神社ガイドという形になった。そちらの完結は近いようで遠い。
まだまだ神社巡りは続く。
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