
「空あり」
”空き”があるということを意味することは当然分かるのだけど、”空(くう)あり”と読むと深い意味がありそうでちょっと考え込んでしまう。
みうらじゅんは駐車場のこの「空あり」をきっかけに、街中の看板だけで「般若心経」の二百七十八文字を全部集めて『アウトドア般若心経』という本にまとめた(一部はどうしても看板では無理だったが)。
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
色(しき)は空(くう)と異ならず、空も色と異ならず、色は即ち空なり、空は即ち色なり。
簡単に言うと、実体(色)があるように思っていることも本当は空なんだということなのだけど、間違えてはいけないのは、”無”ではなく”空”だといっている点だ。
”無也”ではなく”空也”ということは、何も無いのではなく空が有るということになる。空があるということはどういうことか?
駐車場に話を戻すと、空ありは”空き”があるということだけでなく、”空”があるということをも意味しているのではないか。
そこには空という空間がある。その空間を駐車場と定義しなければそこはただの空間であり、無であるとも言えるかもしれない。
自分には何もなく空っぽに思えることがある。
けど、そこにあるのは無ではなく空なのだ。空が有る。
人は実体を持つ色であり、同時に空でもある。
死をもって実体を失ったら無になると思っているけど、本当は空がそのまま残るのではないか。
記憶として。あるいは、記録として。
記憶というものが無ではなく実在とすると、それは空であり色でもあるということになる。
人の本質はそもそも空でできていると言ってもいいかもしれない。
実体は輪郭に過ぎず、中身は空と言った方が分かりやすいだろうか。
「般若心経」はこの世界は本当は空だと言っているけど、月極駐車場は空はあると言っている。月極駐車場の方が「般若心経」よりも斜め上をいっている。
駐車場と定められた空間の上に車が停まっていようがいまいが、空は確かにそこに実存しているのだ。