
岐阜県各務原市の神社巡りをしたのは去年2019年の10月のことだった。
苧ヶ瀬池(おがせいけ/地図)から始まり、村国神社、手力雄神社などを回って、最後に訪れたのが村神神社(地図)だった。
この日は一日中雨降りで、もう日没も近かったのだけど、手力雄神社から歩いてすぐのところだったので寄っていくことにした。
最初、村国神社のつもりで、第三の村国神社と思っていたら村神神社だった。
いや、実は村上神社が現在の正式な社名のようなので、ちょっとややこしい。
社号標には村神神社とあり、地図でも村神神社となっているのだけど、鳥居の額には村上神社とあり、岐阜県神社庁のサイト(web)でも村上神社となっているから、神社本庁の登録名は村上神社なのだろう。かつては村神神社といっていたのではないかと思う。
雨の苧ヶ瀬池を訪ねる
村国神社を訪ね、村国氏とは何者かを考える
各務原の手力雄神社と和解した

岐阜県神社本庁のサイトによると、祭神は石長比女神(イワナガヒメ)だそうだ。これはなかなか珍しい。
天孫降臨したニニギがコノハナサクヤヒメに出会って求婚したら、父親のオオヤマツミが姉のイワナガヒメも一緒にもらってほしいと送り届けたところ、イワナガヒメは醜いからいらないとニニギが送り返し、オオヤマツミは怒って天孫の寿命は短くなるだろうと呪いの言葉を吐いたという、あのイワナガヒメだ。
『日本書紀』では磐長姫と表記するように、岩のように長い生命力を象徴する名前とされる。
全国の浅間神社でコノハナサクヤヒメと一緒に祀られている例はそれなりにあるものの、イワナガヒメを単独で祀っているところはごく少ない。
この村神神社が最初からイワナガヒメを祀っていたかどうかは分からない。江戸時代までは権現様と呼ばれていたというから、明治になってからイワナガヒメを祭神としたのかもしれない。
ただ、それにしてもどうしてイワナガヒメとしたのかは気になるところだ。
気になるといえば、村社に列格したのが昭和9年(1934年)というのも気になる。社号標に村社とあるから明治に村社になったのだろうと思ったら違っていて、無格社だったものを昭和に入ってから神社が願い出て村社に列したという経緯だったようだ。
だとすると、すぐ近くの手力雄神社が明治に郷社になったときや、明治末の神社合祀政策のときに手力雄神社に移されなかったのは何故だろう。手力雄神社からは160メートルほどしか離れていない。
そもそもどうして村神神社だったのだろう。文字通り村の神を祀る社だったということか。
村上神社となったのが昭和以降のことだとすると、村上天皇は関係がないということになる。

境内は未整備状態というか、何やら混沌としている。
一部は削られているだろうか、東も南も民家が建っていて、参道といったものはあるようでない。
少し西に境川と岩地川の合流点がある。

それにしても非常に雰囲気のある神社だ。手力雄神社とは全然違った古くささが感じられる。ある種ここは異空間になっている。
個人的には決して嫌いではない。
ただ、訪れる人は少ないだろうと思った。

拝殿の梁の上に何か乗っている。どうやら古い御輿のようだ。
こんなところに保管しているのは初めて見た。
これほど素朴で古い御輿も今はなかなか残っていない。

拝殿の隅に無造作に積まれていたこれは何だろう。お祭りで使うものだろうか。これも初めて見るものだ。

正式には南鳥居から入った方がいいかもしれない。
ただ、南には民家があって、西側からしか入れない、

とりあえず南鳥居から入り直してみた。
ここも雰囲気がある。
よく分からないけどすごい神社だ。

住所は那加長塚町で、かつての那加村だったところだ。
長塚というからおそらく長い塚、つまりは古墳からつけられた地名だろう。
手力雄神社の裏手にも古墳があったけど、この神社は古墳の上に乗っているんじゃないだろうか。境内地は全体にこんもりしている。けっこう大きい古墳かもしれない。
古めかしい空気感は神社の古さというよりも古墳が発しているものではないだろうか。
村神という社名も、古墳の被葬者がこの地の首長と考えると納得できる。

境内社の秋葉神社。

御嶽っぽいけど違うかもしれない。

手力雄神社を訪ねた際には、よかったらこの神社も寄ってやってください。
【アクセス】
・名鉄各務原線「新加納駅」から徒歩約30分
・岐阜バスコミュニティ岐阜各務原線 JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりば、「各務西町営業所」行き、または名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりば、「各務西町営業所」行きに乗り、「手力雄神社前」バス停下車、徒歩5分
・各務原市ふれあいバス西部・鵜沼線「山後町公民館前」バス停下車、徒歩約8分
・駐車場 なし
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