
岐阜県各務原市の神社巡りの終盤に手力雄神社(地図)を訪れた。
どうしても行っておきたいという気持ちが強くて日没前になんとか辿り着いたのだけど、第一鳥居をくぐる手前で、おおおっ、となった。
なんというか、非常に重たい。気が重く、足取りも重い。手前まで行って急に入りたくなくなった。憂鬱だ。
稀にそういうことがあるのだけど、めったにあることではない。霊感のたぐいは持ち合わせていないと自覚している。それにしてもここは久々に重かった。
人によってはそこで引き返すということもあるのだろうけど、せっかくここまで来て入らないという選択肢は私にはなかった。もったいないという思いの方が勝った。

感情を抜きにすれば立派でいい神社なのはすぐに分かった。同じ岐阜県の岐阜市にある伊奈波神社(web)を思い出した。

社伝では、5世紀末に現在の各務原市那加地区(古くは佐良木郷と呼ばれていた)を支配していた豪族が山の中腹の磐座(いわくら)を祀ったのが始まりとしている。
しかし、『延喜式』神名帳(927年)には載っておらず、『美濃國内神明帳』にある真幣明神がそれに当たるとされる。
真幣(みてぐら)はいわゆる神札のことなので、漠然とした社名だ。いつ現在地に移されたのか、祭神を手力雄神としたのがいつなのかなど、分からないことが多い。
672年の壬申の乱で活躍した村国男依(むらくにのおより)が各務を領地として与えられたので、村国一族も何らかの関わりを持ったかもしれない。ただし、東にある村国神社(地図)とは直線距離で7.7キロほど離れている。
2キロほど西南の岐阜市蔵前(かつての厚見郡)にも手力雄神社(地図)があり、そちらは平安時代前期の860年に各務氏が氏神として創建したとされる。
村国氏はほどなく衰退して、代わって各務をおさめたのが各務氏なので、各務郡の真幣明神を手力雄神社としたのは各務氏だったかもしれない。
村国神社の祭神は尾張氏祖神の天火明命(アメノホアカリ)と鏡作部の祖の石凝姥命(イシコリドメ)なので、手力雄とは系統が違う。
厚見郡の手力雄神社は宮中で祀っていた手力雄を勧請したという話があり、伊勢の神宮(web)とも関わりが深いという。
伊勢の神宮の内宮の相殿神はあまり公にはしていないのだけど、天手力男神と栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)とされている。
承久の乱(1221年)以降、この地は守護家の土岐氏がおさめることになり、その家臣の薄田氏(すすきだうじ)や佐良木氏(更木氏)が神社を守ったという。
室町時代に薄田氏が寄進した梵鐘や狛犬が残っている。
手力雄神社の読み方について「たぢから」としているとものと「てじから」としているところがあってどちらが正式なのかよく分からない。岐阜県神社庁は「たぢからお-じんじゃ」としているのに対して公式サイトのアドレスはhttp://www.tezikarao.org/となっており、サイトの手力雄神社の下に「Tedikarao」とある。
祭神の天之手力男神/天手力雄神は、一般的にアメノタヂカラヲとされるから、個人的には「たぢからお-じんじゃ」の方がしっくりくる。
地元の人たちは「てぢからさん」と呼んでいるそうだ。

主祭神として手力雄神を祀り、相殿神として高御産霊神、神産霊神、美和都神、宇津井剣火御子三所神、伊波乃西神、長山神、村国神、村国真墨田神を祀っている。
最初からこんなに祀っていたとは思えないから途中で増えたのだろう。それにしても見慣れない神が入っている。村国関係は村国氏との関わりを示すものとして、美和都神、宇津井剣火御子三所神、伊波乃西神、長山神というのは名古屋では見たことがない。造化三神のうちの高御産霊神と神産霊神を祀っているのも気になる。
ところで、私の激重だった感覚は、参拝を終えたとたんに嘘のように消え失せ、むしろ気持ちがものすごく軽くなったのだった。あれ? という感じで自分でも驚いた。長く続いた風邪が治ったときみたいな感じだ。
よく分からないけどよかったと喜んだ。和解という言葉が頭に浮かんだ。気が重かったのは、ここの神様か土地に対して私が過去に何かをしでかしていて、そのことがずっと気掛かりだったとかだろうか。

1567年、織田信長は稲葉山城(今の岐阜城)を攻めるためこの地を訪れた。
周囲の寺社を焼き払い、この神社も焼き討ちしようとしたところ、にわかに霧が立ちこめ体が動かなくなって馬から落ちた。さすがの信長も神罰を恐れて焼き討ちをやめ、稲葉山城後略の後に社領や宝物を寄進したと伝わる。
神紋が織田木瓜になっているのはそのためで、それまでは巴紋だったという。

拝殿の裏手に回ると本殿の上部が見える。
本殿は江戸時代前期の1674年に建てられたとされる檜皮葺の流造で、柱には見事な龍の彫刻がほどこされている。
天手力雄命を祀る神社の総本社のような立場の神社は長野県長野市の戸隠神社(web)とされており、手力雄神社の龍の彫刻はその中の九頭龍社の影響を受けているといわれている。
江戸時代はこの地の旗本だった坪内氏や徳山氏などが崇敬し、保護した。

本殿と龍の彫刻は各務原市の重要文化財に指定されているけど、国の重文指定でもおかしくない。

タヂカラノヲといえば天の岩屋戸のエピソードで登場する神だから、ここは天の岩屋戸を模したものかと思ったら、古墳だった。
(天の岩屋戸に隠れたアマテラスが少し扉を開いたとき、すかさず扉を開け放ってアマテラスを岩屋戸から引っ張り出したのがタヂカラノヲだ)
横穴式石室を持つ6世紀後半の古墳が2基残されている。
当然ながらこの古墳の被葬者と神社の祭神とは関係があると考えられる。6世紀後半なら村国氏よりも100年も前の時代だ。

古墳の発掘調査が行われたのかどうかは分からない。
石室内には小さな社が祀られている。

秋葉社ですら貫禄がある。

福徳竜神。
やはりここは龍が関わっている。龍の彫刻もたまたまではない。
写真が余ったので続編につづく。
【アクセス】
・名鉄各務原線「新加納駅」から徒歩約25分
・岐阜バスコミュニティ岐阜各務原線 JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりば、「各務西町営業所」行き、または名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりば、「各務西町営業所」行きに乗り、「手力雄神社前」バス停下車、徒歩すぐ
・各務原市ふれあいバス西部・鵜沼線「山後町公民館前」バス停下車、徒歩約3分
・駐車場 あり(無料)
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