明月院で鎌倉紀行もやっと半分で、まだ先は長いのだ

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
明月院-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/80s(絞り優先)



 そろそろゴールデンウィークも遠い日の出来事になりつつある昨今。にもかかわらず、私の鎌倉紀行はまだ半分も書き終わっていない。どういうことですか、これは。などと誰にともなく当たってみる。けど、居直っていても終わらないので、一日一寺ずつ書いていくしかなかろう。途中に何も挟まなければ、建長寺、鶴岡八幡宮、長谷寺、鎌倉大仏、その他、とあと5回で終わるはずだ。終わるといいな。
 お昼も食べずに歩き続けていた私たちは、12時をまわった頃ようやく明月院(めいげついん)に辿り着いた。このあたりで若干へばり始める。鎌倉というのは座れる場所の少ないところで、ましてや外ランチできるところとなるとほとんど見当たらない。寺にはベンチも少なく、一般的な公園などというものも観光コースの途中には存在しない。ここは不健康な人間にはとても厳しい土地だ。

 明月院の成り立ちは、これまで見てきた北鎌倉のお寺とは違って、少しややこしい。
 もともとは頼朝のオヤジの源義朝と平清盛が戦った平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道を弔うために、その子供の首藤刑部太夫と山ノ内経俊が明月院の前身の明月庵を創建したことに始まる(1160年)。
 その後、五代執権の北条時頼が別邸として持仏堂を造営して最明寺と名付けた。時頼の死後はいったん廃絶したものの、息子の八代執権の時宗(円覚寺の人)が、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として再興して禅興寺(ぜんこうじ)と改名した。
 明月庵はどこへいったかというと、禅興寺の塔頭(たっちゅう)となっていた。塔頭っていうのは、寺の境内にある小寺というか支社のようなもので、大きな寺の中にはいろんなお寺が入っていることが多い。
 時は流れて室町時代(1380年)。足利氏満が関東官領・上杉憲方に禅興寺の再興を命じて、寺院は拡大して、塔頭も建てた。そのときに明月庵は明月院と改められて支院の首位に置かれることとなる。
 三代将軍義満の時代には関東十刹の一位となるほど栄えたものの、その後衰退。明治に入って禅興寺はとうとう廃寺となってしまった。その代わり明月院だけが残って現在に至っている。
 寺の運命もどう転がるか分からない。禅興寺として残っていたらまた違った寺になっていただろう。名前が固いから、もっと雄々しい感じの禅寺となっていたかもしれない。明月院というのは名前のイメージがソフトで成功しているところがある。
 今日も前置きが長くなった。総門をくぐる前からこの調子ではなかなか前へ進まない。定年退職後にボランティアで名所案内のガイドをしてるおじさんの話みたいだ。

明月院-2

 ここは道が三方に分かれていて、どっちから進むのが正当なのか分からないまま本堂まで着いてしまった。本来なら三門をくぐっていきたいところが、裏から入り直すこととなった。珍しい木の階段の明月院桂橋があったからそこを渡ってしまったのが間違いだった。一番右から行くのが正解なんだと思う。
 本堂は紫陽殿と名づけられていて、本尊の聖観世音菩薩が祀られている。その左には仏殿の宗猷堂があり、更に奥には鎌倉最大の「やぐら」の崖がそびえている。やぐらは浄智寺にもあった岩の中をくり抜いたお墓のことで、ここのものは高さ3メートル、間口7メートル、奥行きも5メートルと巨大だ。中には二体の如来像と十六羅漢像が浮彫にされていて、中央には上杉憲方の墓とされる宝篋印塔が安置されている。
 このやぐらは、明治初めの山崩れで発見されたんだそうだ。最初に見つけた人はびっくりしたことだろう。埋もれていたことで保存がよくなったのは幸いだった。
 入口から左へ進むと、五代執権北条時頼の墓所がある。
 建物の見どころとしては、開山堂である宗猷堂(そうゆうどう)を見逃せない。南北朝時代の1380年に建てられたもので、茅葺きで寄棟造りの屋根が特徴的だ。明月院を開山した密室守厳禅師の木造が安置されていてる。

明月院-3

 明月院といえば、この丸窓の月見の窓が有名だ。時宗のときの和泉元彌もここを背景に写真に収まっていた。誰もが見たら撮らずにはいられない絵になる光景だ。
 本堂に上がるには、ユニセフ募金という名目の300円を払わないといけない。お茶とお菓子付きだから、休憩を取るためにも上がっておけばよかった(セルフサービスっぽいけど)。お寺と募金という組み合わせが感覚的にしっくりこなくてやめた。ここで弁当広げてたら叱られただろうな。
 裏は庭園になっていて、ハナショウブと紅葉の見頃の時期だけ入ることができる。ただし、それにも500円かかる。明月院を堪能しようと思ったら、拝観料300円を入れて1,100円必要となる。ちょっと取りすぎ。

明月院-5

 本堂の前は枯山水の庭園になっている。けっこう唐突なロケーション。若い子がここを背景に記念写真を撮っていた。そこで本当にいいのかと問いたかったけど、もちろんそんなことはしない。ちょっと照れくさそうな嬉しげな笑顔で撮られていた。
 私は枯山水が本当に理解できるほど枯れてはいないので、この魅力がよく分からない。普通に水を張った方がきれいだろうと思う。これを自然に見立てるなんて、イメクラの世界だ。私はそんなに想像力がたくましくない。しかし、京都なんかでは外国人が枯山水を見て喜んでるから不思議だ。どこまで本気でいいと思ってるんだろう。彼らはフランス映画を理解するように枯山水も正しく理解しているのだろうか。
 創建当時の明月院は、橋の架かる池や三重塔があったそうだ。この枯山水も案外最近のものかもしれない。昔の姿の方に私は魅力を感じる。自分が分からないものを無理にありがたがることはない。

明月院-4

 これが裏からくぐった三門(山門)だ。アジサイの季節になるとここの両脇いっぱいにアジサイの花が咲き乱れるという。明月院は別名アジサイ寺と呼ばれるほどアジサイのイメージがすっかり定着している。地元では「アジサイ公害」といって恐れをなす毎年6月。シーズン中の週末ともなると、北鎌倉駅から明月院まで数百メートルの行列が続くそうだ。境内も押すなおすなの大盛況でゆっくり花を楽しんだりじっくり写真を撮っているどころではない。明月院のアジサイはあまりにも有名になりすぎた。
 しかし、昔からアジサイ寺として知られていたわけではない。そもそもアジサイを植え始めたのも戦後のことで、アジサイが名物になったのは昭和40年代に入ってからのことだ。なので歴史は浅い。
 境内には約2,000株のアジサイが植えられていて、多くがヒメアジサイという日本古来の青い花だ。薄い青から濃い青に変化する様子がすがすがしくも美しく、人はそれを明月院ブルーと呼ぶ。
 アジサイなんて日本全国どこにでも咲くありふれた花なのに、なんでわざわざ遠くから混雑すると分かり切っている鎌倉の明月院まで行くのか? その問いの答えは、おそらく行けば分かるのだろう。それだけの価値があるから人が集まってくるに違いない。行ってみたら評判倒れだったというなら、これほど名物として知れ渡ることもない。いくら老舗の有名店でも味が悪ければ客足は遠のく。悔しいけどこりゃ認めざるを得ないなと思わせる説得力があるんだそうだ。境内の雰囲気と相まって独特の静かな華やかさがあるのだろう。私も今年見に行くか。来年にしようか。

明月院-6

 こちらは孟宗竹林。ここは絵になるシーンが多い。紅葉のときも趣があるのだろう。
 明月院といえば、澁澤龍彦邸が近くにあることが一部で知られている。私もあわふやな手掛かりを元に少し探してみたのだけど、結局見つけることができなかった。残念。ヒントは、明月院の近くの丘の上の白い家。いくらなんでも手掛かりが少なすぎた。
 帰ってきてから新たなる有力証言が得られた。明月院へ向かう途中の生垣に沿う小径を辿って左に折れて、急な坂道を登りながら右手を見上げると、張り出した岩の上に白い壁とペパーミントグリーンの建物が建っていて、近づくとぼたんという名の柴犬が吠えるらしい。奥さんの龍子さんの文章だから、出所ははっきりしている。次こそこの証言を頼りにもう一度探してみたい。骨付き肉を手に持って、ぼたんやー、ぼたんやー、と呼び歩いている男がいたら、それはきっと私だ。

 鎌倉は、京都、奈良と同様、第二次大戦で空襲がなかったところだ。アメリカ人が古都の重要性を本当に理解していたかどうかは疑問だけど、この点だけは戦争の中の救いだった。もし、京都に爆弾を落として街を焼いていたとしたら、日本人は全滅するまで狂ったように戦ったかもしれない。鎌倉はたぶん、アメリカ軍にとって重要攻撃目標ではなかったから助かったのだろう。おかげでこういう古い寺社が残った。関東大震災がなければもっと残っただろうけど、それは言っても仕方がない。
 徹底的に壊されて生まれ変わらざるを得なくて新しくなった東京は別にして、やはり戦争というのは大切なものをたくさん壊してしまう負に属するものだ。源平の時代から戦国時代の内戦だってそうだ。安土城などの重要な城もたくさん燃えてしまった。
 古い建造物の重要性というのは、現代を生きる私たちが昔に思いを馳せるためのとっかかりとなってくれるという点だ。京都奈良にしても鎌倉にしても、古い神社仏閣が残っていなければ修学旅行や個人の旅行で行く機会はもっと少なくなっていただろう。沖縄や北海道ももちろんいいけど、歴史を振り返るきっかけとなる古都巡りも大事なことだ。教科書や本だけでは実感を得るのは難しい。実際その地に自分が立って、自分の目で見て初めて気づくこともたくさんある。それを機に興味がわいて、勉強して知識や教養が深まるということもある。
 簡単に1200年とか1300年とか年号を言ってるけど、700年、800年という年月は決して短いものでも簡単なことでもない。その時間は、私たちが頭で思っているよりも重い。必要以上に深刻になることはないけど、時の重みをしっかりと受け止めたい。

 そんなわけで、やっとこさっとこ明月院をあとにした私たちは、建長寺へとテクテク歩いて向かった。電車は区間が広くて、わざわざ戻って乗るとかえって遠くなるし、車で来るにはこんな不便な街はない。鎌倉のレンタサイクルは、1時間1,000円もするから気軽に借りて乗り捨てていくようなこともできない。巡れば巡るほどに貧乏になっていく仕組み。そして、否が応でも歩かねばならない。いろんな意味でここは厳しい街だなぁと思う私であった。
 明日は建長寺でお会いましょう。
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