一宮市今伊勢目久井にある車塚古墳を訪ねる

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
車塚古墳

 愛知県一宮市の北部にある古墳は、浅井北古墳群、浅井南古墳群、今伊勢古墳群の3つのエリアが知られている。
 一宮市は歴史の古い街で、尾張国一宮は一宮市にある真清田神社ということからもそれが知れる。
 現在知られている以上に遺跡や古墳がたくさんあったはずだけど、現存しているものは多くない。災害に遭い、都市化の波に飲み込まれ、空襲で焼けて、戦後の再開発の中で破壊された。

 今回は今伊勢古墳群のひとつ、車塚古墳(地図)について紹介します。



車塚古墳

 今伊勢古墳群は19基が知られており、そのうち7基が現存している。
 車塚古墳はそれらの主墳と目される前方後円墳で、築造は5世紀前半と考えられている。
 全長は70メートルというから、尾張の前方後円墳の中では大型の部類に入る。
 後円部の直径は34メートル、高さ4メートルで、周濠は見つかっていない。
 今伊勢町本神戸目久井(むくい)にあることから目久井古墳とも呼ばれている。

 説明板によると、倭姫(ヤマトヒメ)がアマテラスを祀る場所を探し歩いているときに尾張国中島を訪れ、この山に登って大神の鎮座地の見当をつけたことから見当山とも呼ばれたとある。
 車塚の名前の由来は、横から見た形が車の形に見えたことからだとも書いている。
 ヤマトヒメが尾張国中島を訪れたことは『倭姫命世記』に書かれている。いわゆる元伊勢と呼ばれる地のひとつで、この後ヤマトヒメは伊勢国に入ったとされる。
 中島宮がどこのことをいっているのかは諸説あってはっきりしない。有力なのが今伊勢町本神戸字宮山の酒見神社とされる。
 他には坂手神社や清須市の御園神明社なども候補として挙げられる。
 明治のはじめに楠の大木をくりぬいた舟が発掘され、これはヤマトヒメが中島宮を訪れたときに乗った舟ではないかともいわれている。

 かつて車塚古墳の上に社があり、『延喜式』神名帳(927年)の裳咋神社(もくいじんじゃ)だったのではないかとする説がある。
 通説では稲沢市の裳咋神社が延喜式内社とされているも、裳咋(もくい)と目久井(むくい)が近いことから、あり得ない話ではない。どちらも当て字が不自然で、もともと「ムクイ」または「モクイ」だったというのはそうなのだろう。

 車塚古墳は江戸時代から古墳ということが知られており、『尾張国地名考』の中で津田正生は、寛政元年(1789年)に洪水で方角山(車塚古墳のことが崩れて)中腹から神鏡三面や剣、太刀、矛など数多が出土したと書いている。
 変形半円方形帯四獣鏡は酒見神社が所蔵し、捩形文鏡が個人蔵となっており、方格規矩鏡は所在不明とされる。
 管玉や勾玉の他、鉄刀などの鉄の武器が副葬されていることから、この地方の首長クラスの人物が埋葬されたと考えられる。
 ただ、一宮市の歴史は非常に複雑なので、単純に尾張氏の誰かと決めつけるようなことは言えない。


車塚古墳北から

 車塚古墳の少し北の今伊勢町馬寄に福塚前遺跡があり、一宮市は2018年から2019年にかけて発掘調査を行った。
 その結果、古墳の周溝や土坑の存在が確認され、須恵器や土師器、紡錘車などが出土した。
 紡錘車は珍しいもので、古墳の副葬品ではないかといわれている。
 昭和50年の調査で6世紀頃の古墳の遺跡だということが分かっていた。今回はそれを裏付ける形になった。
 一宮市は掘り返せばまだまだいろいろなものが出てくる土地に違いない。行政が歴史遺産を観光に活かすことを考えたら発掘調査は進むかもしれない。



車塚古墳東から

 引き続き名古屋とその周辺の古墳めぐりは続けていこうと思っている。
 守山区志段味に、この4月1月、ひっそりと「しだみ古墳ミュージアム」(web)がオープンした。新元号発表の日と重なったため、名古屋のローカルニュースでもほとんど取り上げられなかったのは気の毒だった。
 いずれそちらも紹介したい。

【アクセス】
 ・名鉄名古屋本線「今伊勢駅」から徒歩約17分
 ・駐車場 なし

 地図
 

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