
名鉄瀬戸線「尾張旭駅」のロータリーに馬に乗った武士の銅像がある。
近づいてみると「水野又太郎良春」とあり、簡単な伝記を書いた説明板があるので、水野良春の像だということは分かる。しかし、尾張旭市民のどれだけが郷土の英雄、水野良春のことを詳しく知っているだろう。尾張旭市の小中学校では水野良春についての授業が行われているのだろうか。
このブログではこれまで何度か水野良春について書いてきた。
又太郎良春さんはアマツヒコネがお好き?
瀬戸電沿線風景---東エリア編
初冬の尾張旭巡り
勝手塚古墳の上に建つ勝手社に参拝
あらためて水野良春について紹介したいと思う。
そもそも水野氏は桓武平氏良兼流の一門という名門一族だ。
尾張平氏・長田氏の支流で、鎮守府将軍・平良兼の孫・致頼が伊勢、尾張に進出して、その孫の経家が尾張国の師桑に住んだ。その経家の子の景貞が水野氏の祖とされる。
景貞は尾張国山田荘水野郷に入尾城を築いたことから水野氏を名乗るようになった。
平安時代末までには志段味郷も支配下におさめ、このあたり一帯で勢力を誇っていた。
承久の乱(1221年)では一族揃って朝廷側について幕府軍と戦っている。
なお、このとき山田荘の御家人だった源氏の山田重忠も朝廷側で戦い、命を落としている。
水野良春の生まれ年ははっきりしない。1331年の元弘の乱に参加していることと、没年が1374年ということからすると、1300年代ということになるだろうか。承久の乱で大和に移った基家の曽孫に当たるとされる。
1331年の元弘の乱で良春は護良親王を擁した吉野金峯山寺僧兵団の将として戦った。
その後、建武の新政(1333-1336年)が始まると、嫌気が差したのか、祖先の故郷だった志段味郷に移っている。このとき志段味城を築城したという話もある。
1336年に始まる南北朝時代、致国は北朝の足利尊氏に付き、致顕が足利直義方や南朝方に付いて、それぞれ武功を挙げている。
良春も吉野に戻って南朝方に付いて転戦した。
再び良春が志段味郷に戻ったのがいつだったのかははっきりしない。1361年に隠遁したという話があるから、そのときだったかもしれない。
志段味郷の南をあらたに開墾して館を建て、のちにそこは新居村と呼ばれるようになる。新居の地名は今も残る。
1368年には弟の報恩陽を定光寺から招いて新居村に退養寺を建てた。
新居町の多度神社は1361年に良春が桑名の多度大社から勧請して創建したとされる他、志段味の勝手社は良春が吉野から勝手明神を勧請したのが始まりとされる。
没年となる1374年に新居城を築いたという話もあるのだけど、本格的な戦用の城郭にしたのは四世孫の水野雅楽頭宗国(みずのうたのかみむねくに)だっただろうと思う。
宗国は大森城主の尾関氏と戦って勝ちを収め、大森村と新居村を含む25か村を支配したと伝わっている。
良春は没した後、退養寺に葬られた。一族の墓は退養寺の奥へ入っていったところにある。
戦国時代になると水野氏は清須の斯波氏に仕えた。その後、斯波氏の勢力が衰えると織田信長に仕えるようになった。
しかし、信長が没すると武士を捨て、新居村で農家になったという。それに伴って新居城も廃城となった。
江戸時代には新居城の東に尾張藩初代藩主・義直が狩りをするときの仮殿が建てられた。
水野氏は徳川家に仕え、多くの尾張藩士を生むことになる。
良春の人となりは伝わっていないのだけど、個人的に何か親しみを感じている。そのこともあってか、尾張旭という町が好きだ。居心地がよくて落ち着く。
水野良春といっても全国的な知名度はごく低い。せめて尾張旭の人だけでも良春のことを知って、大事にしてやってほしいと思うのだ。
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