長久手市役所は岩作東城の城址 - 現身日和 【うつせみびより】

長久手市役所は岩作東城の城址

岩作城址

 かつての長久手町役場、今の長久手市役所の敷地内に「岩作城址」の石碑がある(地図)。興味津々という人は少ないだろうけど、戦国時代ここに岩作城という城があった。
 岩作は地名で、「やざこ」と読む。これは石作連(やざこのむらじ)から来た地名と考えてよさそうだ。
 城址の350メートルほど北に石作神社(地図)がある。こちらは「いしつくり-じんじゃ」と読ませる。
 第12代垂仁天皇の時代、石棺を奉納したことで石作(やざこ)の姓を賜ったのが始まりとされ、石作神社の祭神となっている建真理根命(タテマリネ)は尾張氏の祖神、天火明命(アメノホアカリ)の六世の孫と『先代旧事本紀』はいう。
『延喜式』神名帳(927年)には尾張国に4社の石作神社が載っている。丹羽郡、中島郡、葉栗郡、山田郡で、ここ長久手の石作神社は山田郡石作神社とされる。
 石工集団がそれぞれ散らばってその地で祖神を祀ったのが石作神社の始まりと考えられる。
 地名はいつの頃からか「石」から「岩」に変わったのだろう。あるいは、もともと石作と岩作は別だったのかもしれない。
 石作神社はこれまで二度参拝している。

 石作神社と色金山
 長久手の石作神社を再訪していい神社だと思う

 岩作城を築城したのが誰だったのかは伝わっていない。発掘調査から室町時代だと考えられている。
 正確に言うと、ここは岩作東城で、岩作西城もあった。
『尾張志』はそれぞれの城についてこう書いている。

「岩作東城 岩作むら東島といふ民戸の西の方に□る地にてここの字を城の内といふ也四面に土居の形猶残れり土居幅二間つつあり土居を省て東西四十四間南北三十二間あり地方覚書に今井四郎兵衛居之當村東畠にあり其跡一段二畝歩也とある是なり郷人今も其名を知れり天正十二年四月九日岩崎籠城戦死の士に今井四郎三郎といふあるは四郎兵衛の子なとにやありけむ」

「同所西城 同村西島といふ民居の北の方にあり堀搆等もなく土居も残らねは舊墟定かにわきかたしされと東西三十間南北十間はかりあり地方覚書に又一ツは鈴村權八居之當村西畠にあり其址一段廿歩也といへるは是也城址みな水田なれとここの字を城屋敷と呼也」

 岩作東城は90メートル×70メートルほどの規模で、江戸時代後期になっても土居(土を積み上げて作った垣)が残っていたようだ。
 城主は今井四郎兵衛で、小牧長久手の戦いの戦死者の中に今井四郎三郎という人物がて、それは四郎兵衛の子ではないかという。
 岩作西城は東城の西300メートルほどのところにあって、大きさは54メートル×18メートルくらいで、城主は鈴木権八といっている。

『尾張徇行記』(1822年)は、「岩作城 古簿曰、今井五郎太夫者居之、然土人今無識其姓名者」と書いている。
 おそらく東城のことで、同じ今井でもこちらは五郎太夫とする。三郎、四郎、五郎となれば兄弟かもしれない。

 取るに足らないようなこんな小さな城ではあるのだけど、小牧長久手の戦いの舞台となったことで語り継がれることとなった。
 天正十二年(1584年)当時の岩作東城の城主が今井氏だったのは間違いなさそうで、岩崎城での戦死者の中に今井四郎三郎の他に七右衛門、小右衛門、助八郎、小八郎などがいることからして、このあたりに今井一族がいたことが分かる。
 もともとこの今井氏は武田家の家臣で、武田が滅びた後、徳川家康に仕えたとされる。
 今井氏の他に加藤忠景の名も見られ、この加藤忠景は信長亡き後息子の信雄に仕え、岩崎城主だった丹羽氏次の姉を正室に迎えていたことからすると、加藤忠景が城主だった可能性もあるのか。
 いずれにしても少ない人数で守っていたところを羽柴秀吉軍の池田恒興に岩崎城ともども攻め落とされてしまった。

 その後、岩作東城は廃城になったとされるも、発掘調査で江戸時代中期の陶磁器などが見つかっていることから、城址を屋敷に改築するかして誰かが利用していたとも考えられる。
 西城については分からない。今は田んぼになってしまって跡形もない。

 600メートルほど東には家康が陣を敷いた色金山があり、1.2キロほど南には古戦場公園がある。
 その他、血の池公園やら首塚やらといった物騒な場所や地名も残り、戦国に興味がある方なら多少楽しめると思う。逆に言えばこの時代に興味がないとまったく楽しめない。
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