
守山区小幡地区は知られざる古墳密集地区で、今も数基の古墳が現存している。
守山区の古墳というと、東谷山古墳群から続く志段味古墳群がよく知られている。東谷山の尾張戸神社古墳や志段味の白鳥塚古墳は4世紀築造とされる。
そこから西へ庄内川を下ったところに小幡古墳群がある。かつてこのあたりは小幡が原と呼ばれていた。大小あわせて100以上の古墳があったともいう。
明治になってここに小幡ヶ原射撃場が作られたとき、大部分が破壊されてしまった。戦後に宅地開発される頃はまだ七塚と呼ばれていたというから、その頃は他にも残っていたのだろう。それらは調査されないまま破壊されてすべては分からなくなってしまった。
長塚古墳(地図)は全国の他の長塚古墳と区別するため小幡長塚古墳と呼んでいる。
302号線の茶臼前交差点から少し西に入った住宅地にある。
茶臼前交差点の名前はすぐ北にある小幡茶臼古墳(地図)から来ている。それもいずれ紹介したいと思っている。
長塚古墳は近年まで5世紀に築造されたと考えられていた。
それが2005年(平成18年)以降の調査で見つかった須恵器や埴輪の破片から6世紀後半に築造されたようだと修正された。
6世紀後半というと前方後円墳では終末期に当たる。名古屋でも7世紀になると古墳はほとんど造られなくなった。
墳丘の長さは約81メートルで、この地区としては大型に近い中型の前方後円墳ということになる。
周囲を二重の周濠で囲い、堤の高さは180センチほどだったと考えられている。周濠を含めた全長でいうと140メートルほどになるというからなかなか立派なものだ。
ただし、葺石は確認されていない。
内部の調査は行われていないため、人骨や副葬品などは見つかっていない。
須恵器(高坏、甕)、円筒埴輪、朝顔型埴輪、人物埴輪の破片、家型埴輪、動物埴輪などが出土した。この中では人物埴輪が珍しくて貴重だ。出土品は見晴台考古資料館に収蔵されている。
小牧長久手の戦い(1584年)のとき、古墳の上に登って見張りをしたという言い伝えがある。確かにここは小牧と長久手を結ぶ通り道に当たる。
小幡ヶ原射撃場時代は演習のとき墳丘に塹壕を掘ったりしたので、そのときの痕跡が残っている。
周囲には住宅が建ち並び、墳丘の一部は壊されたものの、姿はわりとよく残っている。
被葬者が誰かということに関しては、これはもう分からないとしか言いようがない。6世紀の後半に小幡あたりを支配していた豪族の首長だろうけど、尾張氏の誰かなのか、別の一族なのか、別だとすれば尾張氏の側なのか反対勢力なのか、そのあたりを推測することも難しい。
小幡には縄文時代から続く牛牧遺跡があり、古くから庄内川沿いのこのあたりに人が暮らしていたことが分かっている。弥生時代を経て古墳時代、そして飛鳥時代へと歴史はつながっていっているわけだけど、古墳時代と神社創建を結ぶ輪がよく見えない。あるいはそれが小幡廃寺なのかもしれない。
まだ紹介していない古墳がいくつもあるので、ちょくちょく古墳ネタも挟んでいこうと思っている。


冬場の方が草が枯れて墳丘の様子がよく分かる。


北側から見ると雑木林のようになっていて古墳とは気づかない。
【アクセス】
・名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約11分
・駐車場 なし
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