犬山の専念寺は池田恒興が建てたというけれど

神社仏閣(Shrines and temples)
専念寺

 愛知県犬山市犬山西古券にある専念寺(地図)を訪ねた。

 文化財ナビ愛知(web)はこの寺についてこう書いている。
「専念寺は、浄土宗の寺院で京都知恩院の直末である。寺伝によると弘治元年(1555)に犬山城主池田信輝により創建され、その伯父が開山した。信輝の死後、犬山城主小笠原家、平岩家の菩提寺となり、同家一族の墓がある」
 池田信輝は池田恒興といった方が通りがいいだろう。
 浄土宗で京都知恩院の末寺といっている。

 それに対して『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。
「弘治元年故念和尚、当城主池田勝入に申して建立せし古刹なり。和尚は信長公の時、江州安土において、浄土宗と日蓮宗と宗論ありしとき、其座に列りしほどの学僧なり。本尊阿弥陀立像は運慶の作。塔頭一宇あり。圓光院」
 北にある常満寺(1291年創建の古刹)などとともに絵図にも描かれている。

 寺伝では1555年に故念和尚が開山し、池田恒興が創建したということのようだ。
 しかし、それはたぶん正しくない。
 池田恒興は1536年生まれで、1555年当時は19歳で信長の小姓をしていた。とても寺を建てるような財力はないし、そんな立場でもない。
(恒興の母が信長の乳母となり、後に信長の父の信秀と再婚したため、恒興と信長は義理の兄弟ということになる)
 それに、池田恒興が犬山城主になるのは、1570年の姉川の戦いで功績を挙げたことによるもので、1555年時点ではまだ犬山城主になっていない。ゆえに、1555年に池田恒興が専念寺を建てたというのは無理がある。
 創建年の1555年が正しいのであれば、その当時の犬山城主は織田信清だ。前年の1554年に信清の父・信康(信秀の弟)が美濃の斎藤道三との加納口の戦いで討ち死にしたため、信清が跡を継いだ。
 池田恒興が専念寺と関わり持ったのは犬山城主になった1570年以降のことだろう。池田恒興(信輝)の墓が境内裏手にあることからしても、無関係ということはなさそうだ。
 池田恒興が犬山城主だった時代は4年ほどで、1574年には東濃の小里城に移った。
 1580年には摂津の荒木村重を破り、有馬、尼崎、花隈の領主となる。
 1582年の本能寺の変の後、秀吉とともに明智光秀を破り、摂津10万石の大名として大坂城に入った。
 1584年、小牧長久手の戦いでは秀吉側につき、膠着状態を打破するために家康本拠の三河に向かったところを家康隊に急襲され、長久手で命を落とした。49歳だった。
 このとき嫡男の元助も討ち死にし、次男の輝政が跡を継ぐことになった。池田輝政は後に姫路城を大改修して今の姿にした人物だ。
 秀吉が小牧長久手の戦いに勝ったら恒興に尾張一国を与えると約束していたという。もしそうなっていたら、その後の尾張の運命は違ったものになっていたかもしれない。



専念寺楠

 境内には大きな楠が二本ある。『尾張名所図会』には巨木は描かれていないから、その後に育ったものだろうか。



専念寺本堂

 本堂は1673年(寛文13年)に再建されたもので、国の登録文化財に指定されている。
 2004年(平成16年)に一部が改修されたものの、建物自体は江戸時代前期の様式をよく残している。
 本堂の西にある庫裏も1689年(元禄2年)と古いもので、こちらも登録文化財指定になっている。
 本尊の阿弥陀如来像を『尾張名所図会』は運慶作と書いているけど本当だろうか。もし本当であればもっと話題に上っているはずだし文化財登録されているだろうから、やはり違うのか。もしくは古いものは失われてしまったのか。



専念寺手水に氷が張る

 寒い日で手水が凍っていた。



専念寺手水の氷




専念寺石仏

 池田恒興は小牧長久手の戦いで命を落とした後、いったん遠江国新居に埋葬され、後に京都妙心寺の慈雲院に改葬された。
 専念寺にも墓があるのは犬山城主だったからだろう。分骨されているかもしれない。
 池田勝入斉となっているのは、剃髪して勝入(しょうにゅう)と号したためだ。諡号は護国院。
 専念寺は恒興が去った後に犬山城主となった小笠原家、平岩家の菩提寺となった。

 すぐ北にある常満寺も行っておけばよかったのだけど、それはまたの機会にということで。

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「犬山駅」より徒歩約17分
 ・駐車場 不明(ありそうな気はする)
 
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