
岐阜市海津町油島の木曽三川公園(web)の南にある治水神社(地図)を訪ねた。
揖斐川、長良川、木曽川の合流地点の堤の上にその神社はある。
名古屋を含む濃尾平野は東高西低の地形で、水は低いところに流れるため必然的に西側に川が集まっている。そのため、河川の流域はたびたび氾濫が起こり、甚大な被害を出していた。
何とかしなければいけないことは分かっていても、いざやるとなるとあまりの難工事に尾張藩も手が付けられずにいた。
そこで幕府に訴え出た。重い腰を上げて治水工事に取りかかると決まったときの将軍は9代徳川家重だった。
馴染みがないと思うけど、8代吉宗の長男に当たる。この人物、あまり評判がよくない。生まれついての虚弱体質で言葉が不明瞭だったこともあり、大奥にこもって酒と女に溺れていたという。
家重が目を付けたのは、この頃まだ力を持っていて脅威だった薩摩藩だった。当然、費用は薩摩藩持ちだ。
担当に選ばれたのが薩摩藩家老の平田靱負(ひらたゆきえ)だった。治水神社の祭神でもある。
宝暦4年(1754年)の2月から宝暦5年(1755年)の5月にかけて行われたことから宝暦治水とも呼ばれている。
それまで勝手気ままに流れて氾濫を繰り返していた木曽川、長良川、揖斐川の三川をきっちり分けることが工事の主な目的だった。
この工事はのちに宝暦治水事件と呼ばれることになる。最終的に藩士51人が自殺し、33人が赤痢などの病気で命を落とし、総責任者の平田靱負も工事完成後に責任を取って自害したためだ。
しかし、自殺だと分かると藩が取りつぶされる恐れがあったため、幕府には報告しなかったとされる。おそらく幕府側でも事情は知っていただろう。
薩摩藩が負った費用は40万両。今の金額で300億円以上だったと推定される。そのうちの半分以上は大坂商人からの借金でまかなった。これを返済するにも薩摩藩は苦労し、奄美大島などの島民が犠牲になった。
平田靱負は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」という辞世の句を残し、美濃の大牧で腹を切った。
この工事のおかげで河口域の氾濫は減少したものの逆に上流部で洪水が増えるという結果を招くことになる。
本格的な治水工事が行われるのは明治になってからで、ヨハニス・デ・レーケによるものだった。
その後、忘れられかけていたこの工事を世に知らしめたのは三重県多度の西田喜兵衛という人物だった。
明治33年(1900年)の宝暦治水之碑の建立式には総理大臣の山県有朋も参列した。
その後、地元の人々によって大正14年(1925年)に宝暦治水奉賛会が設立され、神社創建のための募金活動を経て、昭和2年(昭和2年)に建築が始まり、昭和13年(1938年)に治水神社が完成した。
平田靱負の他、工事で命を落とした85名が祭神として祀られている。
神社の南の堤には多くの松が植えられ、油島千本松原として国の史跡に指定されている。始まりは九州から持ち込んだ日向松だった。

社名碑は東郷平八郎の書。



古社を思わせる立派な社殿で、昭和の創建とは思えない。
本殿、拝殿、祭文殿を渡殿でつなぐというのは尾張造を意識したものだろう。
祭文殿は桧造り銅板葺きで、昭和5年に建てられたものだ。
拝殿は桧造り桧皮葺きで昭和13年に造営された。




社務所も立派。


隼人橋は宝暦治水工事完成200年記念の昭和29年(1954年)に建造された。この橋は二代目のものだ。
隼人はもちろん、薩摩隼人から来ている。
かつてはここに小川が流れていたそうなのだけど、今はもう流れていない。

宝暦治水観音堂は工事の犠牲者を弔うために昭和28年(1953年)に建立された。
現在のものは昭和58年(1983年)に再建されたものだ。
毎年4月25日と10月25日に慰霊祭が行われている。今でも遺族などが鹿児島からも参列するという。
【アクセス】
・養老鉄道養老線「石津駅」から海津市営バス南回り線に乗り、「木曽三川公園」バス停下車。そこから徒歩約1分。
・駐車場 なし(境内前に駐車可)
治水神社公式サイト
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