
目白から山手線通り沿いをテクテク歩いていくと、おっ、こんなところにヨネクラジムがある! などという驚きがありつつ(2017年に閉鎖された)、住宅街のクネクネした細い道を進んで明日館へとやって来た。これがあしたかんか。いやいや、みょうにちかんって読むんだよ。それでは、みょうにち、の明日だ。
入口の前に立って中をのぞいてみると、なにやら人だかりができている。なんかあったか? と思ったら、ガイドさんによる建物解説が行われているところだった。誰か有名人が来ていて報道陣が取り囲んでインタビューしているのかと思った。
この日はちょうど休日見学デーということで400円を払って中を見学してみることにした(お茶付きだと600円)。
ここの見学日システムは少しややこしいことになっているので、行くときは事前に公式サイトで調べていった方がいい。
基本的に平日の10時-16時は公開しているのだけど、講堂見学不可や食堂見学不可などがあるので油断できない。結婚式やイベントに使われることが多いようだ。月に1、2度休日見学デーがあって、その日は17時まで開いている。第三金曜日は18時-21時の夜間見学がある(ビール付きは1,000円)。ガイドツアーは公開日の14時から。
婦人公論社を作った羽生もと子・吉一夫妻が、大正10年(1921年)に女学校として自由学園をこの地に創設した。
キリスト教を土台とした人間教育を行い、女性の地位向上を目指すというというのが学園創設の趣旨であった。「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」。学ぶことと生活することが生きることそのもだというのが基本思想だった。
実際に校舎として使われたのは13年間で、自由学園は昭和9年(1934年)に東久留米市に移転している。生徒が増えて、この校舎に入り切らなくなったためだ。その後ここは明日館と名前を変え、卒業生の活動拠点として長らく使われてきた。
設計はアメリカが生んだ世界の巨匠フランク・ロイド・ライト。羽仁夫妻の思想に共感したライトがぜひにということで担当することになった。当時、帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手をしていた遠藤新の紹介だった(中央棟と西教室棟がライトの設計で、引き継いだ遠藤新が東教室棟と講堂の設計をしている)。
建物は関東大震災にも、第二次大戦にも耐えて、1997年には国の重要文化財にも指定された。ただ、重ねた歳月には勝てず老朽化が進み、1999年から3年に渡って大がかりな補修工事が行われた。2001年にリニューアルオープンとなって現在に至っている。
動態保存ということで、現在は積極的に解放して活用していく方向になったようだ。使わない建物は傷みが早い。
セキスイハイムの阿部寛のとなりのハイムさんのCMはここで撮影された。

人がいなくなったところであらためてライト設計の建物をよく見てみる。シンプルというよりもいい意味での質素さがあって、学校建築にはふさわしい。それにやはりライト特有のスタイルで、帝国ホテルにも通じるものがある。中庭に広くスペースを取ってコの字型にするところに余裕を感じさせる。
中央棟のゆるやかな傾斜の屋根から左右の建物につながって、シンメトリーになっている。この建物はライトの中期の作品に当たるのだけど、スタイルは初期の第一期黄金時代と呼ばれるものの特徴に近い。出身地のウィスコンシンの大草原に似合う建物としてライトが作り出したもので、プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれている。
ライトは生涯で800以上の作品を残し(実現したのは400ほど)、のちの建築業界に大きな影響を与えた。しかし、外国での設計はカナダの3件と日本の6件しかなく、カナダのものは現存してない。日本のものでは、帝国ホテルの正面玄関が愛知県犬山市の博物館明治村(Web)に移築されている他、山邑邸(現ヨドコウ迎賓館/Web)、旧林愛作邸(現電通八星苑・非公開)と、この明日館だけということで、こうして自由に見学できる建物はとても貴重だと言える。
しかし、このライト先生、かなり無茶苦茶な人だった。
大学を中退したあと、設計事務所で働き始めて早くから才能を認められ、22歳のときに最初の結婚。しかし、他でこっそりやっていたバイトがバレて事務所をやめることになり独立。プレイリースタイルが高く評価され調子に乗ったか、ダブル不倫。更に設計を担当した家の奥さんと恋仲に落ちて泥沼に。奥さんとの間には6人の子供がいたこともあって大変なスキャンダルとなった。ここから長らく建築家としても低迷期に入る。
日本にもともと興味があったライトは、翌年初めて来日して、浮世絵と出会っている。のちに強烈な浮世絵コレクターとなるきっかとなったのは、この不倫騒動の中の初来日のときだった。
42歳、どうしても離婚に応じない妻にキレて、チェニー夫人と恋の逃避行。家庭も捨て、事務所も閉めて、ニューヨークからヨーロッパへ逃れ逃れて流れていった。これでアメリカ国内での評価は地に堕ちた。
しかし、さすが巨匠ライト、ただでは転ばない。この逃避行の2年間の間にこれまでの作品集を発表したことで、ヨーロッパで評価されることになり、結果的にそれが世界に天才ライトの名を知らしめることとなる。
2年後にアメリカに一時帰国。けれど、設計の依頼は来ない。失意のライトは故郷ウィスコンシンに戻り、チェニー夫人と住むための家を建て、タリアセンと名づけたその家でふたりの間の子供たちと暮らし始めた。
ここで更なる大事件勃発。使用人が突然発狂して家に火をつけたあと、チェニー夫人と2人の子供、弟子達までもを殺害するというショッキングな出来事が起こる。建築現場に行っていたライトは無事だったものの、心に受けた衝撃は計り知れない。もちろんこれはアメリカ中で大スキャンダルとなる。
なのだけど、さすがライト先生というかなんというか、この事件に同情した女性彫刻家とこの年、早くも恋に落ちるのであった。めげない人だ。
それにしても、これで完全に依頼がばったり止まってしまったライトは途方に暮れた。はて、どうしたものか。そんなところに舞い込んだのが、日本からの帝国ホテル設計の依頼だった。
1917年、50歳のときに再来日。帝国ホテル建築中に自由学園の設計も担当しつつ、浮世絵も買い漁りつつ(集めに集めた6,000点)、日本で6年間を過ごした。アメリカ帰っても仕事ないしな、って感じだっただろうか。
その後、懲りることを知らないライト先生は、更に結婚、ダブル不倫、離婚を経験して、ますます信用を失墜させながらも、三度目に結婚したオリジヴァンナ・マリノフがライトを立ち直らせ、69歳のときカウフマン邸落水荘で奇跡のカムバックを果たす。ここから第二期黄金時代を迎えることになる。
82歳のときにはアメリカ建築家協会からゴールドメダルを受賞して、評価も完全復活。91歳で死ぬまで仕事を続けたのだった。
天才はかくも破天荒でなければならないのか。女と仕事と長生きという点で、ピカソに似ている。
こんな波乱の生涯と穏やかな明日館の建物は相容れないようでいて、そのギャップが面白くもある。内装は天井を低くして、椅子や家具などは小さめに作っている。これは子供たちのための校舎だからだ。

内部で見学できるのは、小教室や食堂、ホールなど、数ヶ所に限られる。室内はかつての面影を残すものの、特別何かがあるわけではない。自分の中でイメージを膨らませないと、素通りして終わりになってしまうかもしれない。

この食堂はとてもいい雰囲気だった。窓から差し込む日差しと、天井の柔らかい光が相まって、わぁ、いいなぁと思わせた。手作りの暖かい昼食をみんなで集まって食べることが大事という思想のもと、校舎の中心に作られている。
内装のデザインもかなり凝っている。ただし、ライトの設計はメインフロアのみで、他は遠藤新が担当している。実は、かなりの部分で遠藤新の功績が大きい。最後まで忠実な弟子だったと言われている。

ホールの2階部分から下を見下ろしたところ。中央の大きな窓もこの建物の特徴のひとつだ。ここから外を眺めながらお茶をすることができる。春は桜が、秋は紅葉が、この窓で切り取られて絵画のようになる。2階はギャラリーになっている。

道路を一本隔てたところに建つ講堂。遠藤新設計で、テニスコートがあった場所に昭和2年に建てられた。こちらも重要文化財に指定されている。
現在はコンサートや講演会、結婚式などに使われている。ちょっと教会のような厳粛な雰囲気があってよかった。
中庭には樹齢50年を超える立派な桜が4本ある。満開になったときはとてもきれいだ。今はもうかなり散ってしまったのだろうけど、咲いてる期間中ライトアップされている。
自由は与えられるものではなく、不自由さの中に自分で見出していくもの。親や社会が子供に分け与えるようなものではない。自由は心の中にしかないのだから。そして、自由には大きな責任が伴う。
明日は明るい日と書く。明日は今日よりも明るいと信じて私たちは生きている。信じることは間違いではない。ただ、ぼんやり待っていても明日が明るくなることはない。自らが輝かせなければ。
大人が子供に与えなければならないのは、口でかみ砕いたエサではなく、エサを獲る方法だ。それが明日を生きるために必要な教育というものだ。
ライト先生の生き様からも学ぶことはたくさんある。自分がしでかしたことは自分にはね返ってくるということと、天才を天才たらしめるのはそれを支える周りの人間がいてこそということを私たちは知る。結局のところ、人と人とのつながりが何よりも大事だということだ。建築物というのは、そのための装置の役割も果たしている。ひとつ屋根の下で人と人とが集うとき、そこに大切なものが生まれる。
学校を作るということも、建物も建てることも、思いを込めれば、それは必ず伝わるものだ。時を超えて。昨日の明日が今日になり、今日が明日につながっていく。ここでの教えも、この校舎も、私たちの願いも。