
奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳(地図)。
歴史にはあまり興味のない人でも箸墓古墳(はしはかこふん)は聞いたことがあるのではないだろうか。卑弥呼(ヒミコ)の墓と考える人も少なくない。箸中山古墳ともいう。
三輪山の西、初期ヤマト王朝誕生の地とされる纒向遺跡(まきむくいせき)にその古墳はある。
全長278メートル、高さ30メートルの前方後円墳で、古墳時代最初期のもののひとつとされる。
三輪山は古くから神宿る聖なる山とされ、麓には日本最古の神社ともいわれる大神神社(地図)が建つ。
纒向遺跡は弥生時代末期の3世紀前半に突如出現した大型の集落で、古墳時代前期には急速に衰退してしまった。
他の弥生・古墳集落とは大きな違いがいくつかある。
3キロ平方という広い範囲にもかかわらず人が住む集落跡が見つからないこと、農耕をした形跡がないこと、全国各地から土器が持ち込まれていること、北部九州や大陸・朝鮮半島由来の鉄器がほとんど見つからないことなどが挙げられる。
一方で大がかりな祭祀跡が見つかっていることから、人工的な祭祀都市のようなものだったのではないかとする説もある。
箸墓古墳は卑弥呼の墓で、纒向遺跡が邪馬台国だったと考える研究者も少なくない。
ただ、調査はやっと始まったばかりで、今後大きな発見があるはずなので、あまり短絡的に結論づけるのもよくないように思う。
邪馬台国は北部九州か畿内かなどと論争しているうちは真実は見えてこない。


古墳の多くは宮内庁が管理しており、原則的立ち入りは禁止されている。調査のための立ち入りも厳しく制限されており、何か隠し事があるんじゃないかと疑いたくもなる。
何々天皇陵とされているものも、適当に当てはめたものが多く当てにはならない。
箸墓古墳は、地名から大市墓(おおいちのはか)と名づけられ、宮内庁の見解では第7代・孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とする。
『日本書紀』の中に三輪山伝説と呼ばれる話がある。
百襲姫(モモソヒメ)は大物主神(オオモノヌシ)の妻となったが、オオモノヌシが夜にしかやってこないため姿を見ることができなかった。そこで姿を見せて欲しいと頼むと、オオモノヌシは櫛笥(クシや化粧品を入れる箱)に入っていると告げ、翌朝それを開けてみたところ小さな蛇がおり、百襲姫は驚き叫んだためオオモノヌシは恥じて三輪山に帰ってしまい、百襲姫はしゃがんだ拍子に陰部に箸が刺さって死んでしまった。人々は百襲姫を葬る塚を作り、そこを箸墓と呼んだというのだ。昼は人が作り、夜は神が作ったという謎めいたことも書いている。
百襲姫は力のある巫女だったとされ、イメージとして卑弥呼とつながることから百襲姫=卑弥呼という考えもある。
纒向遺跡で見つかった大型建築物の跡から2千個以上の桃の種が見つかったというニュースを覚えている人もいるだろう。桃は不老長寿や厄除けと考えられており、祭祀に使ったのではないかともされる。
モモソヒメと桃はこじつけだろうけど、箸墓古墳の後円部から吉備地方特有の祭祀用特殊土器が見つかっていることは無視できない。
纒向遺跡に持ち込まれた土器の半数は東海・伊勢地方のもので、割合の多い順にいうと北陸、山陰、河内、吉備、近江、関東、播磨、瀬戸内海、紀伊で、九州由来のものはほとんどない。
吉備は数こそ少ないものの、祭祀用と考えられる特殊土器であることから、吉備の勢力が祭祀を司っていた可能性が指摘されている。
百襲姫は吉備津彦(キビツヒコ)の姉に当たり、キビツヒコは桃太郎のモデルとされる人物だ。桃太郎といえば桃、キビツヒコとモモソヒメの兄弟となると、偶然というには符合することが多い。
桃太郎の話を日本昔話と思っている人は多いかもしれないけど、吉備地方(岡山県)ではキビツヒコが温羅(うら)と呼ばれる鬼を討ったという話が広く伝わっており、まったくの作り話とは思えない。
そのキビツヒコと吉備と纒向遺跡がどうつながっているかはなんとも言えないのだけど。

箸墓古墳をもって大型の前方後円墳定型化の始まりとする説もあるけど、3世紀前半築造とされる古墳は九州その他にもあり、箸墓から始まったとは言い切れない。
何故突然、前方後円墳というスタイルの墓が生まれたのか。
円墳や帆立貝式などと混在しながら前方後円墳は3世紀から7世紀にかけて西日本のみならず東日本まで広く伝わって定型化した。古墳時代は九州と畿内について語られることが多いのだけど、実は関東の群馬や茨城などでもたくさんの大型前方後円墳が作られている。それは東日本までもがヤマト王権の支配下に入ったことを意味している。押しつけられたというよりもむしろ許可を求めて作ったという方が当たっているのではないか。
東北はわずかではあるものの、北陸も古墳は多い。東海地方でいうと、愛知よりも岐阜の方が多く見つかっており、三重県も少なくない。
邪馬台国は九州か畿内かといった狭い視点ではなく、日本全国、あるいは朝鮮半島、大陸を含めた広い視野でこの時代を見渡す必要がある。
箸墓古墳や纒向遺跡の調査はこれらも続いていく。近いうちにあっと驚く新発見があるのではないかと期待している。

【アクセス】
・JR桜井線「巻向駅」から徒歩約15分
・駐車場 なし
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