江戸のヒーロー将門さんに挨拶して味方に付けよう神田明神 - 現身日和 【うつせみびより】

江戸のヒーロー将門さんに挨拶して味方に付けよう神田明神

神田明神鳥居




 今回紹介する神田明神だけど、行く前は少し及び腰だったところがある。というのも、神田明神というとどうしても平将門の怨霊が連想されてちょっと恐れていたからだ。ただ、実際に行ってみたらまるでそんなおどろおどろしい雰囲気はなくて、ちょうど結婚式も思われていたこともあって、境内はカラリと明るい空気感に満たされていてホッとした。むしろ庶民的空間とでも言えるような居心地のよさを感じた。平将門さんとケンカして勝てる自信はまったくない。できることなら味方にしておきたい人だ。
 写真や映像で見てできた頭の中のイメージと実際に行って見た印象がずいぶん違うのが東京という街で、神田明神も入口は思っていたのとはかなり違っていた。東京は性質上どうしてもそうなってしまうのだけど、それは唐突に現れるのだ。普通の街中に突如として異空間の入口があって驚く。歩いていっても前置きがない。歴史的建造物と現代の街並みが強引にくっついて隣り合わせになっている。このへんの感覚は名古屋とはまったく違っていて、まだ慣れることができない。ただ逆に言えば、神社仏閣を21世紀の街の中にそっくり残しているのもすごいと思う。東京というのは、外から見ているよりも近づいてみると意外に懐の深い街だということに気づく。



神田明神の隨神門

 鳥居をくぐって最初に出迎えてくれるのがこの隨神門(ずいしんもん)だ。
 関東大震災のときに燃え落ちてしまって以来、50年間失われたままだったのを、昭和50年に昭和天皇即位50年の記念として再建されたものだ。
 総檜の入母屋造で、四方には青龍、白虎、朱雀、玄武が彫られ、中央には御祭神である大国主之命の神話が描かれている。

 神田明神の興りは古く、社伝によると730年に出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)が、現在将門塚がある千代田区大手町あたりに、大国主之命(大己貴命)を祀るために建てたのが始まりとされる。当時あの辺りは海岸沿いで森に囲まれた鬱蒼とした土地だったそうだ。
 940年、反乱に破れた将門を神田明神近くに埋葬したことから、一緒に平将門を祀るようになった。伝説によれば、関東で討ち取られた将門の首は京都で晒されたものの、首だけ飛んでこの地まで戻ってきたといわれている。そして次々に起こる怪奇現象。いわゆる怨霊というやつだ。しかし日本人の面白いところは、こうなってしまってはもうどうすることもできないので神として祀ってしまえという奥の手を使う。こうして日本二大怨霊、菅原道真と平将門は神様となった。その後は関東を守る太田道灌や北条氏綱などの武将たちによって手厚く保護されていくことになる。
 現在も将門の首塚は大手町で高いビル群に囲まれながらもそこだけ違う空気感が満たされているという。うっかり軽い気持ちでは近づけない。
 この強烈なパワーを味方に付けようとしたのが徳川家康だ。関ヶ原の合戦の前、神田明神に戦勝祈願をして見事勝利を収めた家康は、江戸幕府を開く際に神田明神を江戸城の表鬼門の守護するため神田山(駿河台鈴木町)へと移転させた。更に二代将軍秀忠が現在の湯島に移し、江戸の総鎮守とした(1616年)。そのときの建物は総鎮守の名にふさわしい壮麗な桃山風の社殿だったという(1923年の関東大震災で焼失)。

 神田明神が江戸庶民に愛されたのは、なんといっても神田祭の存在が大きい。日本三大祭りのひとつでもある神田祭は、関ヶ原の合戦の9月15日に行われていて、これは縁起がいいということで家康が続けるようにと言ったことで盛大な祭りとなった。
 赤坂山王権現(日枝神社)の山王祭とともに天下祭と呼ばれ、年ごとに交代で豪華な祭りが行われ、現代へと続いている。
 江戸時代は江戸中あげての大騒ぎで、36台からの華麗な山車が江戸市中を練り歩き、そのまま江戸城まで入って将軍や大奥の人々が楽しんだそうだ。今年2007年は神田祭が行われる年に当たる。5月の10日から14日まで、現在は神輿にかわったものの、大変な賑わいを見せるはずだ。山車は関東大震災でほとんど燃えてしまって残っていない。



神田明神の拝殿

 神田明神といえば平将門だけど、じゃあ御利益は何だろうと考えるとパッと出てこない。しかし実はここ、第一の神様は平将門ではなく大己貴命(大国主命)、いわゆる大黒様なのだ。そう考えるとなんだか肩の力が抜ける。大黒様は様々な縁を結ぶ神様だ。男女の縁結びだけでなく、人と仕事や人と人の縁を取り持つ神様と言われている。そのあたりからもここで結婚式を挙げる人が多いのだろう。
 じゃあ第二の神様が平将門かというとそうではない。二番目は少彦名命(すくなひこなのみこと)、恵比寿様だ。商売繁昌の神様で、健康や開運の御利益もあるとされる。
 どうして平将門が三番目になってしまったかといえば、江戸幕府が倒れて明治の世の中になったとき、突然、平将門は朝廷に逆らった逆臣ではないかということになったからだった。江戸のヒーローが一気に悪役になってしまって江戸っ子も驚いただろう。明治7年、明治天皇がここにお参りにくることになり、将門が神様ではまずいだろうということになって急きょ神様の座からはずされてしまう。二軍落ちで境内摂社に格下げ処分。そのピンチヒッターとして呼ばれたのが大洗磯前神社から助っ人としてやってきた恵比寿様だったというわけだ。
 しかし、この扱いには江戸っ子も怒り心頭。その後10年間も神田祭をボイコットしたくらいだから、相当頭に来たのだろう。江戸っ子は一宮や二宮に賽銭を入れず、格下げされた将門社の方しか参らなかったという。
 平将門が神田明神の神様として復帰するまでそれから110年を要すことになる。わりと最近の1984年(昭和59年)のことだ。



神田明神の社殿

 江戸時代を壊した三大元凶は、明治新政府と関東大震災と東京大空襲だった。地震は倒壊だけでなく火事の被害が大きかったから、ずいぶん多くの貴重なものが焼けてしまった。
 神田明神も江戸時代の社殿が関東大震災で焼け落ちた。現在のものは昭和9年に再建されたものだ。ただ、この建物は日本初の鉄筋コンクリート製で防火対策が施されていたため、空襲でも焼け残った。これ以外の建物はことごとく燃えてしまった。
 戦後は結婚式場や資料館を増築した他、大がかりな塗り直しなどされて、江戸時代の絢爛さに近づいたと言われている。現在でも神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様として東京都民を守っている。このあたりに住んでいる人は、一度くらい足を運んで将門さんに挨拶しておいた方がいいかもしれない。味方にすればこれ以上強力な人はいない。
 ただし、都市伝説的な言い伝えとして、神田明神側についたなら、成田山新勝寺を参拝してはいけないとされている。これは、平将門の乱を鎮圧するために新勝寺で護摩祈祷の儀式がなされたせいで、あちらに詣ると将門さんが苦しむからだそうだ。その逆のことも言われていたりする。触らぬ神に祟りなしとするなら、両方近づかない方が身のためとも言えるだろうか。
 とはいうものの、平将門さんは決して理不尽な暴れん坊とかそういう人ではない。京都の平安貴族の横暴的な支配に対抗するために関東に武士による新しい理想国家を作ろうとした人だった。個人の反乱から始まった天慶の乱は関東武士たちの支持と尊敬を集めて、関東対朝廷の戦いとして5年続いた。将門は朝廷に楯突こうとか乗っ取ろうとしたわけではない。良く言えば、弱きを助け強きをくじくヒーローだったのだ。だからこそ、江戸庶民に支持されたのだろう。
 神田明神といえば「銭形平次」を思い出す人も多いかもしれない。野村胡堂が書いた『銭形平次捕物控』の主人公銭形平次は、神田明神下の長屋に住んでいるという設定だった(敷地内に銭形平次の碑がある)。あれも庶民のための正義の味方だった。

 東京の神社仏閣巡りをしていると、この街が間違いなく江戸の上に作られた街だということを実感する。それ以前の痕跡がほとんどなくて、江戸時代だけが色濃く残っている。こういう二重構造は他の都市にはない独特のものだ。
 そして今回、神田明神のことを書いたことで、江戸っ子というものの正体が少しだけ分かったような気がした。それはつまり、自分たちは江戸の町の発展を見届けながら我が町を守ってきたという自負心から来るものなのではないか。昔から東京に住んでいる人は、町との関わりがとても深いように感じられる。たとえば神社仏閣にしても、地方都市に住んでいる人の多くは自分の町内の神社仏閣にほとんど関心さえ示さないのに対して、古くからの東京人は寺社との関わりが深いように見える。信仰心とは別の部分で日々の暮らしの中に寺社が近しいものとしてあるのではないだろうか。
 考えてみると歴史の浅い土地でこれだけ多くの寺社があるというのも不自然だし、これだけ発展した大都市で残っているというのも不思議な話だ。それだけ地元民が守る意識が強いということなのだろう。表だってはいなくても、まだまだ江戸っ子の心意気は東京に息づいている。それは、京都あたりの古い伝統を守ろうというのとはまた違ったものだ。
 江戸幕府が開かれてわずか400年。それでもこの400年は濃厚だ。
 
【アクセス】
 ・JR中央線/総武線の「御茶ノ水駅」から徒歩約8分
 ・JR山手線/京浜東北線「秋葉原駅」から徒歩約12分
 ・駐車場 あり
 ・拝観時間 終日(無料)

 神田明神webサイト
 
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