
笠寺観音こと笠覆寺の道一本隔てた南にある泉増院(地図)。
玉照姫に関係がありそうだということでちょっと寄っていくことにした。

笠覆寺は奈良時代前期の733年(736年とも)に創建されたとしている。
それは現在地の650メートルほど南で、善光(禅光)が呼続(よびつぎ)の浜辺に打ち上げられた流木から十一面観音像を彫って堂を建て、天林山小松寺と名づけたのが始まりという。
時は流れて平安時代中期、堂は朽ち果て、雨ざらしになってた観音像に自分の笠をかぶせてあげた村の娘を、旅の途中で通りかかった藤原兼平(関白・藤原基経の子)が見初めて都に連れていき、玉照姫と名づけて妻とした。藤原兼平はその出会いに感謝して立派な伽藍を建て、笠覆寺と名づけたのが今の笠寺観音だ。930年頃という。
笠覆寺にはかつて12の宿坊があったという。ここ泉増院もそのひとつで、元は泉増坊という宿坊だった。宿坊というのは、僧が修業したり参拝者が宿泊したりする施設なのだけど、寺院と同じような機能と力を持っていて、実際には宿坊が笠覆寺を支える格好だったようだ。
江戸時代には6つになり、現在は西福院、西方院、泉増院、東光院が寺として残っている。
泉増院の創建は736年(天平八年)としている。

右に少し写っているのが本堂で、正面が不動堂となっている。
本尊は大日如来で、不動堂には玉照姫座像が安置されている。
玉照姫座像は江戸時代前期に、泉増院第七世住職の實道が夢のお告げを受けて彫ったもので、笠覆寺の境内に堂を建てて祀っていた。
同じ時期に白山堂を實道が創建(または再建)したというから、1680年前後のことだ。
その後、堂が老朽化したため、明治15年(1882年)に泉増院に移され、今に至っている。
実は、笠覆寺と泉増院はこの玉照姫座像をめぐってモメているようで、笠覆寺側は泉増院に奪われたと思っているのか、あんなものは認めないみたいなことを主張している。
玉照姫座像は秘仏になっていて普段は見ることができない。8年に一度ご開帳があるそうだ。




【アクセス】
・名鉄名古屋本線「本笠寺駅」から徒歩約6分
・駐車場 なし(?)
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