コメント
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No title2017/08/22 18:23廣重の五十三次宮の最初に出した保永堂(熱田の神事)では明神鳥居が描かれています。もっとも二版の行書版(熱田濱の鳥居)は神明ですが
絵ですからフィクションということもありますが、当時、熱田大明神が一般的な呼称でしたから、明神鳥居をもって熱田社の否定材料とするのは、無理があるように思います。 -
戦後なのに2017/08/22 19:41>柴田晴廣さん
こんにちは。
熱田神宮は明治26年まで尾張造だったので(神宮になったのは明治元年)、その時代までは熱田神宮も明神鳥居だったと思います。
その後、ご存じのように神明造に作り替えたため、熱田神宮もその関連神社も鳥居は神明鳥居になりました。
それに、熱田は空襲が激しかったこともあって、古い社殿や鳥居が残っているところは少なくて、多くは戦後に建て直したものだと思います。
にもかかわらず、この熱田社が明神鳥居なのはどうしてなんだろうと疑問に思ったわけです。
名古屋の神社は社殿も鳥居もあまり形式にこだわってなくて、ちょくちょく、おやっ? って思うところがあるから、それだけで判断するのは危険なんですけどね。 -
No title2017/08/23 12:57オオタさん
廣重の五十三次は、ちょくちょくポカがありますよね。
隷書版(第三番)の吉田(六月十五日 天王祭)の笹踊の大太鼓は完全なポカ。
太鼓が鼓笛隊みたいに鼓が水平になっています。
してみると、初版の保永堂版より、二版の行書版、三版の隷書版の方がポカが多いってことでしょうか? -
広重が描きたかったもの2017/08/24 19:46>柴田晴廣さん
こんにちは。
歌川広重は実は東海道を旅していなかったという説がありますよね。
東海道名所図絵や歌川国貞の東海道五十三次なんかを元にして描いたというやつです。
実際に旅をしたかどうかはともかくとして、広重が描きたかったのはリアルな風景ではなく、そこで暮らす人々の生きざまみたいなものだったのかもしれませんね。
だから、細部のリアルさにはこだわらなかったんじゃないかな。
さりげなくいろんなメッセージを描き込んだりして楽しんでいた様子もありますし。
行書版や隷書版など10種類以上描いたというのは、それだけ売れたということもあるだろうけど、遊び心もあったのかなと考えたりもします。
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