
久しぶりに守山区の間黒神社を再訪した(地図)。
前回訪れたのが2008年だった。
幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった
あのときは水路に架かる橋を架け替える工事をしていて落ち着いて参拝ができず、写真もちゃんと撮れなかったのが心に引っかかっていた。そのうち再訪しようと思いつつ時が流れてしまった。
久々に訪れた間黒神社は、記憶の中にあるものよりも広い神社だった。こんな立派だったかなという感想を抱いた。ここはなかなかいい神社だと思い直した。2008年当時は神社に対する理解が進んでいなかったというのもある。
創建は江戸時代前期の1636年。産土神として創建したとしている。
現在の祭神はスサノオ(須佐之男命)となっているけど、江戸時代前期創建となると牛頭天王だっただろうか。
間黒神社と改称したのは戦後の昭和28年のことだそうだ。だとすれば、改称前は天王社だったか、須佐之男社だったか。あるいは別の名前だったか。
それにしても、間黒(まぐろ)という社名はどこから来ているのだろう。地名でもなさそうだし、全然見当が付かない。
歴史などについては神社サイトの間黒神社のページで。

境内の空間はゆったりと広がりがあって、なおかつ閉ざされている。気が漏れていない。
境内を横切る水路もいい具合に気の流れにつながっているように思う。計算ではないだろうけど、境内入り口部分と社殿部分が分離しているのがかえっていい。
こんな落ち着いたきれいな神社だったかなぁと思う。第一印象も案外当てにならない。



それほど古いものではなさそうだけど、拝殿には凝った彫り物が施されている。


本殿は石垣と土を高く積み上げたところにある。
このあたりはかつて水害の多い土地で、石垣を積んで家屋や蔵などを建てる水屋という建物が建てられたところだった。今でも瀬古地区に数軒の水屋が残っている。間黒神社の本殿もその頃の名残だ。





他から移された神明社は他の境内社とは別格の扱いになっている。

境内の片隅にかつての神明橋の欄干の一部らしきものが置かれていた。
空襲のため飛来したB29が高射砲隊によって撃ち落とされ、墜落するとき神明橋の欄干に尾翼をぶつけたためヒビが入ったと伝わっている。おそらくそれを保管したものと思われる。
戦勝国になっても、命を落とした兵隊と家族にとっては負けたのと変わらない。
ようやく間黒神社を再訪できて心のつかえがひとつ取れた。こんなふうに引っかかっている神社がまだいくつかある。
【アクセス】
・JR中央本線「新守山駅」から徒歩約12分
・駐車場 なし
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