忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく

人物(Person)
加藤清正像

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。
 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。
 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。

 1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。
 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。
 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。
 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。
 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。
 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。

 清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。
 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。
 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。
 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。
 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。
 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。

清正石

 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。
 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。

 これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。
 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。
 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。

 名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。
 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。
 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。
 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。
 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。
 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。

 戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。
 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。
 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。
 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。
 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。
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