
名古屋を歩けば金シャチに当たる。そんなことわざが成立してもおかしくないほど名古屋には金シャチがあふれている。お城の屋根の上だけにとどまらず、名古屋市職員は鯱のマークのバッジを胸につけ、交通局や消防署には鯱のキャラクターがいる。マンホールは鯱の絵が描かれ、自衛隊の戦車にも鯱が描かれるという思い入れの強さ。どんだけ鯱が好きなんだと、名古屋人からもツッコミが入るほどだ。シャチハタなど鯱にちなんだ名前の会社などもたくさんあり、サッカー名古屋グランパスエイトのグランパスも鯱という意味だ。戦前はプロ野球球団の名古屋金鯱軍もあった。
そんな中、もっとも象徴的ともいえる金シャチが、かつて名古屋港にいた。船に金の鯱を乗せたというか船が金の鯱に飲み込まれているといった姿の「金鯱号(きんこごう)」だ。その存在のあまりのシュールさに、名古屋人も観光客も乗ることに二の足を踏んだという伝説の遊覧船。
それが廃船の憂き目を見ることになってしまったのは2000年のことだった。一度は目をつぶってでも乗りたいと思っていたのに残念だ。
しかし、悲しむなかれ、あれから金鯱号は韓国に渡って余生を過ごしているのだという。韓国の南、羅老島(ナロド)というところで観光船をやっているらしい。なんでも個人所有で、今は金魚号とかいう名前になっているらしい。地元の人にはタイ焼きみたいと言われているとか。けど、韓国で乗る金鯱号ってどうなんだろうと思う。ちょっと違うんじゃないだろうか。個人的には、名古屋城のお堀に小型の金鯱号を運行させればいいと思う。イタリア村のゴンドラがあんなに人気なのだ、名古屋城の金鯱号だって人気爆発間違いなしと思うのは私だけではあるまい。
お菓子関連も当然たくさんある。金鯱モナカとかサブレとかまんじゅうとかあれやこれやが。一番のおすすめは、JR名古屋駅地下街のカフェ「黐木(もちのき)」の「シャチボン」だ。金鯱の姿をした巨大なシュークリームで、そのインパクトの強さからかなりの人気になっているという。1個340円で1日80個限定なので、なかなかお目にかかれない。予約すれば食べられるのだろうか。一度食べてみたいと私も思っている。
愛・地球博が愛知万博ではなく名古屋万博だったとしたら、間違いなくメインキャラクターは鯱にちなんだものとなっていただろう。モリゾーとキッコロは、シャゾーとチッコロとかになっていたかもしれない。愛知万博でよかった。
2005年、万博の年に、愛・地球博と連動する形で「新世紀名古屋城博」というのが開かれた。戦後に名古屋城が再建されて以来初めて金鯱は屋根から降ろされ、それを触れるということで大変な話題になった。期間中の週末は、お触り待ちの長蛇の列ができて触るのに2時間、3時間もかかったという。名古屋中をパレードまでした。名古屋の人たちは、それはもう大喜び。たぶん、その熱狂ぶりは県外までは伝わってなかったと思うけど。
それ以前に金鯱は一度だけ海外に渡ったことがある。当時の名古屋城は国宝で、明治4年(1871年)に、いったん東京の宮内省に納められて博覧会を回った後、明治6年(1873年)にウィーン万国博覧会に出品されたのだった。そのときはヨーロッパでも大評判になったんだとか。天守に戻ったのは明治12年というから、8年も不在だったことがあったのだ。今回は半年間だったけど、金鯱のいない名古屋城はなんとも間が抜けていて脱力感を誘うものだった。
金鯱は3つの読み方がある。「きんしゃち」、「きんのしゃちほこ」、「きんこ」と。少し混乱があるのだけど、シャチというと海のギャングと呼ばれる実在の生き物で、「しゃちほこ」というとこれは魚の形をして虎の頭を持つ想像上の生き物ということになる。当然城の屋根に乗っているのはシャチホコの方であってシャチではない。だから、私もシャチホコと書いた方がいいのかもしれない。
シャチホコは、中国の伝説の海獣「鴟尾(シビ)」が変形したものだと言われている。火が起きると口から水を出して消すという言い伝えがあり、そこから守り神として天守などに置かれるようになった。日本では飛鳥、奈良時代からシャチホコが登場したという。
城の天守にシャチホコを最初に載せたのは織田信長だった。安土城に載せたのは、守り神というだけでなく威光を示すためでもあっただろう。ただ、それはまだ目やウロコだけが金という姿で、初めて全身を黄金にしたのは豊臣秀吉の大阪城だった。金ピカ趣味の秀吉らしい。伏見状にも当初は金鯱が載っていた。倹約家のイメージ強い徳川家康さえも黄金の金鯱を江戸城に置いたところを見ると、やはりこの地方の人間は金鯱を置かずにはいられない何かがあったのだろうか。
しかし、火から守るはずの金鯱たちは、ことごとく燃えてしまい、江戸時代の中頃までには名古屋城にのみ残るだけとなっていた。
名古屋城築城当時の金鯱は、それはもう素晴らしいものだったと伝わっている。慶長大判1,940枚を引き延ばして作られた金鯱は、現在の価値に換算すると金だけで一体4億円ほどになる。18金メッキとは明らかに違う黄金の輝きを放っていたことだろう。
しかし、尾張藩の財政難に伴い、3度改鋳されている。純度の低い金に替えられ、銅や鉛が混ぜられ、最後はたくさんの銀を混ぜて薄塗りになったことで輝きは鈍った。それを知られるのをふせぐために、鳥除けと称して金網が張れていたのだった。ウロコが強風で吹き飛ばされるほどだったというから、明治の頃にはかなりボロボロだったのだろう。金網を張る前は鳥の巣になっていたそうだ。
そんな金鯱だけど、やはり魅力的には違いない。一般庶民だけでなくドロボウさんたちにとっても。一番有名な話が、柿木金助の大凧伝説だ。風の強い日に自らを大凧にくくりつけて名古屋城の屋根に降り立ち、ウロコ3枚を盗んだという。ただしこれは芝居で上演されたときの話で、実際は土蔵に押し入って舟で逃げたらしい。結果的には捕まって、名古屋の町を引き回しのうえ、はりつけの刑に処せられている。
その他、明治に入ってからもいくつかの盗難事件が起こっている。陸軍の兵隊がウロコ3枚盗んで見つかって銃殺にされたり、懲役刑になったりしている。昭和(12年)に入ってからも、調査中のウロコ58枚が盗まれて名古屋市長が責任を取って辞任したりしている。たかがシャチホコじゃないかと思うかもしれないけど、国宝ドロボウと考えれば当然罪は重くなる。昭和の盗難も、売ろうとして足がついて捕まって、懲役10年になった。
昭和20年の終戦の年、金鯱はB29が投下した焼夷弾によって天守閣と共に消えた。見たこともないような色とりどりの火と黒煙を上げながら焼け落ちたという。焼け残った金からは、ミニサイズ(1/20)の金鯱と金の茶釜が作られている。
昭和34年、天守再建の後、市民の強い希望で金鯱も再現されることとなった。使用された金は88キロ。檜の芯木に鉛板を張って、その上から銅板で被い、18金のウロコを張り付けてある。大阪造幣局の地下で作られたそうだ。
金鯱にはオスとメスがいるというのは割と有名な話だ。北がオスで、南がメス。大きさや重量、ウロコの数や姿も微妙に違っている。写真を見て瞬時にオスメスを見分けられる人は名古屋でもそう多くはないと思うけど。

名古屋城展望台のおみやげ売り場も、シャチホコと金ピカグッズにまみれている。これほど金ピカ度の高いおみやでコーナーというのも全国でもあまりないんじゃないだろうか。金シャチの金とシャチを勝手に分離して金までおみやげにしてしまおうという作戦だ。金鯱キーホルダー、金鯱ストラップ、金鯱ピンバッジ、金鯱ネックレス。もちろん、そのものずばりの金鯱のミニチュアや、名古屋城のミニチュアも各種取り揃えてある。ここまで統一感を持たせてあれば、もう何も言えなくなる。ただただ金鯱に圧倒されるばかりだ。名古屋人はそんなに金ピカ趣味とかではないのだけど。
実際のところ、名古屋っ子にとって金鯱とはどんな存在かといえば、県外の人が思うほど親しみのあるものではない。普通の人にはまったく無縁のものだ。名古屋の女子高生がみんな金鯱ストラップをじゃらじゃらさせているとかそういうことはない。もしひとつでもつけていようものならクラス中の物笑いのタネになりかねない。
ある意味では地雷的な存在とも言える。けど、よその人に金鯱のことを悪く言われることを名古屋人は好まない。自分たちで悪口を言うのはいいのだ、でも他人に言われたくないという屈折したところがある。これは日本人と外国人の関係性に似ている。
私も金鯱にまつわるものは何も持っていない。部屋を見渡しても、ミニチュア金鯱も置いてないし、壁に名古屋城のペナントも貼ってない。金鯱マーク入りの木刀を枕元に置いてるなんてこともない。そういえば金鯱のおみやげ類も食べた記憶がない。それくらい縁遠いものなのだ。
でも、嫌いなわけじゃない。金鯱がいない名古屋城を見るたびに、自分ってけっこう金鯱大事に思ったんだと気づいた。なくして初めて気づく大切さ、ごめんよ、金鯱。これからはもっと金鯱のいいところをみんなに伝えていくよ。いつかお金持ちになって豪邸を建てることになったら、屋根には金鯱を載せることにしよう。