日置神社はいい神社だけどそれだけじゃない

神社仏閣(Shrines and temples)
日置神社入り口

 名古屋市中区橘にある日置神社(ひおきじんじゃ)。
 最寄り駅は、上前津か大須観音か。
『延喜式神名帳』(927年)にある尾張国愛智郡日置神社がこの神社とされる。『尾張国神名帳』には従三位日置天神(貞治本に従一位)とある。
 創建についての詳しいいきさつなどは分かっていない。属性としては八幡社なのだろうけど、天太玉命(あめのふとだまのみこと)という馴染みのない神を祀っている。
 全国に同名の神社があり、『延喜式』には7社が載っている(若狭、加賀、越中、但馬、近江、信濃、尾張)。
 一般的に「ヒオキ」もしくは「ヒヲキ」と読ませるも、加賀国江沼郡のものなどは「ヘキ」と読ませる。
 古代このあたりは荘園(地方有力者が開墾して私有した土地)の日置荘があったところで、日置は日置部(ひおきべ)から来ているとされる。日置部というのは、暦を司った人々のことだとか、太陽に関係する祭祀を担当しただとか、聖なる火をもって鍛冶や土器作りをした一族だとか、いろいろな説がある。
 全国に日置にまつわる地名などがあることから、その意味は一種類ではないと思われる。名古屋の場合は、南1.7キロほどのところに金属の神を祀る金山神社があることから、そことの関係も指摘されている。
 実際のところはよく分からない。
 分からないといえば祭神についても謎だ。
 誰か何のために天太玉命を祀ったのか。中世、応神天皇を祀ったことになっているけど、実際は大山守命だったのではないかといった話もある。詳しいことは神社サイト(名古屋神社ガイド)に書くことにしたい。



日置神社

 よくある八幡社とはどこか違っている。もっと古い神社の空気を感じる。他にあまり似ているところを知らない。いい神社というひと言で片づけてしまうのは惜しいというか、それほど単純なところではなさそうだ。



日置神社拝殿

 主祭神が天太玉命(アメノフトダマ)で、配祀は応神天皇(ホムタワケ)と天照皇大神(アマテラス)。アマテラスは明治に入ってから合祀されたものだ。



日置神社参道と境内

 1560年。桶狭間の戦いに臨む信長は、夜明け前に清洲城を飛び出し、美濃路を南下しつつ榎白山神社で戦勝祈願をして、ここ日置神社でも戦勝祈願をして敦盛を舞ったと伝わっている。そのあたりについては榎白山神社のときに書いた。
 榎白山神社と美濃路を駆けた若き日の信長の話
 神社は美濃路沿いにあって確かに寄りやすい場所ではある。ただそれだけだったのだろうか。信長にとって日置神社は特別な意味があったのではないか。信長にとってだけでなく当時の武将たちにとってと言った方がいいかもしれない。すでに八幡社という認識だったとすれば、戦勝祈願にはちょうどいいという単純な理由からだったのかどうか。
 戦に勝利したあと、お礼として信長は神域に多くの松を植えた。それが名物となり、のちに千本松八幡とも呼ばれるようになる。



日置神社ご神木のタブ

 ご神木の椨(たぶ)の木。樹齢は数百年という。平成11年(1999年)の台風でだいぶ傷んでしまったようだ。



日置神社力石

 力石がふたつ。



日置神社橘社

 尾張藩2代藩主の光友を祀る橘社。
 椿町の名付け親が光友で、この近くに橘座という芝居小屋があり、それを作らせたのが芝居好の光友だった。



日置神社西鳥居

 西の鳥居は広い伏見通に面している。かつての美濃路も神社の西を通っていただろうか。



日置神社大黒社

 大黒社、恵比寿社などの境内社がある。



日置神社廣富稲荷社

 廣富稲荷社。



日置神社境内社




高願寺

 隣接する高願寺。入り口の石柱には摩利支眞天と彫られている。
 大黒天、弁財天とともに三神のひとつとされる摩利支天(まりしてん)を祀っているのだろうか。これも武家の神だ。
 創建は明治42年(1909年)というから、神仏習合時代の神宮寺ではない。
 1664年に境内の中に町屋を作り、1683年には境内を削って寺院を建てたという。それが妙善寺だとすると、この高願寺は後釜の寺ということになるだろうか。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「大須観音駅」から徒歩約12分
 ・地下鉄名城線「上前津駅」から徒歩約13分
 ・駐車場 なし(たぶん)
 ・拝観時間 終日
 
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