
闇之森八幡社の北300メートルほどのところに古渡稲荷神社がある。
神社の北を走っている山王通の名称は、この神社が由来になっている。
かつてこの通りは小栗街道と呼ばれていた。それ以前は鎌倉街道だった道だ。
東西を走る小栗街道と、南北を走る美濃路(本町通)が、神社の少し北東、古渡交差点あたりで交差していた。
『尾張名所図会』に描かれた古渡稲荷社は広々とした境内を持つ立派な神社だ。境内で芝居が行われていたというのも分かる。

最初、南鳥居から入ったら社殿のある方に行くことができず、ちょっと焦った。本殿の裏から回り込めば行けたのだろうか。
いったん外に出て、別の入り口を探すことにする。

古渡山王稲荷社と呼ばれたのは、ここに山王社が合祀されていたからだ。
稲荷社はもともと現在地から20キロほど北の丹羽郡石枕村(江南市石枕)にあったものだ。
江戸の四谷で生まれた尾張藩4代藩主の徳川吉通(よしみち)は、稲荷社を産土神(うぶすながみ)として崇敬しており、尾張藩主時代に石枕村にあったこの稲荷社を古渡に移させた。江戸時代中期の1713年のことだ。
稲荷社の創建については何も伝わっておらず分からない。どうしてこの稲荷社だったのか、何か特別な由緒のある神社だったのだろうか。わざわざ遠くから移させたのには何かしらの理由があったはずだ。
清洲にあった山王社や、五條天神も移させて境内で祀った。

東にある鳥居の入り口が一番いい感じだ。社殿も東を向いている。

現在はかなり狭くなってしまったものの、江戸時代はこの何倍も広かったと思われる。
8代将軍・吉宗の質素倹約を旨とする享保の改革に真っ向反対した尾張藩7代藩主の宗春は、芝居や祭りを奨励し、遊廓も公認した。東別院から山王稲荷社にかけての地域に冨士見原遊廓、西小路遊廓、葛町遊廓と3つの遊廓があり、それぞれ30~40軒の茶屋が並び、200人以上の遊女がいたという。一時期、古渡のあたりは名古屋の一大歓楽街だった。
しかし、宗春が吉宗によって謹慎を言い渡されたことで、それらはほどなく廃止され、名古屋の町は急に火が消えたようになったのだった。

祭神は、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天津彦根火瓊々杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと)、猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)、菊理媛命(くくりひめのみこと)、徳川義直(とくがわよしなお)、徳川光友(とくがわみつとも)、徳川綱誠(とくがわつなのぶ)。
明治6年(1873年)に村社に列格。
昭和20年(1945年)の空襲で被災。
昭和53年(1978年)に本殿などが再建された。

真ん中が山王社で、大己貴命(オオナムチ)を祀る。
秋葉社では軻遇突智命(カグツチ)を、五條天神社で少彦名命(スクナヒコ)をそれぞれ祀っている。
【アクセス】
・地下鉄名城線「東別院駅」から徒歩約10分
・名鉄名古屋本線「尾頭橋駅」から徒歩約20分
・名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約20分
・駐車場 あり(無料)
・拝観時間 終日
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