
名古屋市中区伊勢山にある神明社を訪ねた。
金山駅の北、もしくは東別院の南といった方が分かりやすいだろうか。
伊勢山の町名は、この神明社が伊勢山と呼ばれる小山にあることから名付けられたのだと思う。伊勢は伊勢の神宮の伊勢で、小山は古墳だ。どういうことか少し説明する必要がある。
地形的にいうと、ここはちょうど名古屋台地の中間あたりで、西の端になる。名古屋台地の南が熱田で、北の端に名古屋城がある。西を流れる堀川が台地の縁の外に当たる。
縄文時代は今よりも海面が数メートル高かったため、名古屋の西半分の低地は海の底だった。だんだん海岸線が後退して、それまで高台に住んでいた人々が平地に進出するようになる。
そうして弥生時代以降、水が引いた平地に集落ができ、高台となった台地には古墳が築かれた。
今はなくなってしまった大須二子山古墳は、全長130メートルほどの前方後円墳で、東海地方では最大規模のものだった。その他、富士見町遺跡や古墳などが多数見つかっている。社殿の下にある古墳は神明社古墳と名付けられている。
室町時代前期の南北城時代、京都をはじめ各地で戦乱が起こり、伊勢の神宮もそれに巻き込まれることになる。神宮領が侵略されたり焼き討ちにあったりして、貴重な宝なども多数持ち出されたという。
その中のひとつ、秘宝の巻物が尾張のこの地に持ち込まれ、古墳の上に祀られることになった。それがここの古墳の上で、1338年のことという。
表向きは伊勢の神宮からアマテラスを勧請して祀ったとされているけど、実際のところはそういうことだったという話だ。古墳は伊勢山と呼ばれるようになり、巻の森とも呼ばれた。
ただ、神社にある由緒書きには別のことが書いてあった。創建は室町以前で、巻物は慶長年間(1596年-1615年)に、御師(おんし)が巡拝のときに巻物を収めたのだと。
どちらの話が正しいのかは分からないけど、南北朝時代の混乱期に散逸した巻物を手に入れて祀ったという方がリアリティとしてはあるように思う。
伊勢の神宮が皇室ゆかりの神社となるのは、天武天皇、持統天皇の時代からで、それからしばらくは天皇専門の神社とされ、庶民はもちろん、皇室も簡単には参れなくなった。
事情が変わるのが南北朝時代で、神宮は荒廃して、式年遷宮をするお金もなくなり、仕方なく一般庶民に門戸を開いてお金を集めることにした。それで生まれたのが伊勢を案内する御師という人たちだった。今でいう観光案内人のようなもので、神宮に参拝に訪れた人たちのお世話をする係だ。
江戸時代、お伊勢参りが爆発的なブームになったのはよく知られている。
伊勢山神明社は、お伊勢さんの出張所のような役割を果たし、伊勢まで行けない人がここに詣ってお伊勢参りの代わりにしたそうだ。

蕃塀(ばんぺい)を越えて参道を進むと、左手にオールドファッションの二階建てアパートがせり出し、その奥には神社のものらしい古式ゆかしい建物が建っている。アパートの前には子供用の自転車が置かれ、灯籠の前には分別用のゴミ箱が並ぶ。
なんて生活感が溢れる神社なんだと思う。
それにしても、左手の建物の食い込み方はどうしたことだろう。参道正面から見る拝殿を一部隠すほどのせり出し感。右手は開放的で広々としているのに、左側の狭苦しさったらない。
なんか面白い神社だなという印象を残した。

神社境内の様子。
左手に写っている二階建ては古い旅館のような建物だ。神社関係者の宿泊施設とかだろうか。


拝殿の前から境内を見下ろしたところ。
古墳の上だけに小高い。
全国的にはどうなのか知らないのだけど、名古屋は古墳の上に神社が乗っていることが多い。
神明社古墳についてはよく知らない。大須二子山古墳は6世紀前半のものとされているけど、正式な発掘調査が行われる前に壊されたため詳しいことは分かっていない。距離的に見ても、熱田の断夫山古墳(だんぷさんこふん)と無関係とは思えない。断夫山古墳は尾張氏の首長のものだろうといわれているから、神明社古墳もその関係者の可能性が高そうだ。

豊春稲荷社はなかなかいい稲荷社だ。



相殿に熱田大神と加具土大神(カグツチ)を祀る。
熱田の神を祀るのは、古墳の埋葬者との関係だろうか。
カグツチはどういう経緯で祀られることになったのかよく分からない。
境内社として、津島社と塩竈社(しおがましゃ)を合同で祀る社がある。塩竈社は宮城県の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)から勧請したものだろうか。


【アクセス】
・地下鉄名城線「東別院駅」から徒歩約4分
・駐車場 なし(境内に可かも)
・拝観時間 終日
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