
深島神社を訪ねたとき、宗像三女神問題の解決を見ないまま保留として、浄心の宗像神社に行ってからもう一度考え直すと書いた。その機会が意外とすぐにやってきた。
名古屋市西区浄心にある宗像神社。名古屋城から見て北西約1キロのところにその神社はある。
名古屋城天守の北西に御深井丸(おふけまる)という出っ張ったエリアがある。北西角の堀に面したところに戌亥隅櫓(西北隅櫓)があり、天守を守る防御の役割を果たすために設けられた。
その北の堀を御深井堀といい、周辺にも御深井と呼ばれる場所があり、少し混乱する。
宗像神社は下御深井御庭にあったというから、城内ではなく名城公園になっているところにあったようだ。境内は4百坪以上というからかなり広かったようだ。御深井弁天(おふけべんてん)と呼ばれていたという。
1610年、名古屋城築城に際して、名古屋城初代城主で尾張藩初代藩主の徳川義直(家康の九男)は、九州筑前の宗像神社(宗像大社)から宗像三女神を勧請して3つの社を創建した。
それが宗像社であり、深島社であり、武島社であるというのだけど、問題はどの神をどこに祀ったかという点だ。
深島神社の祭神も田心姫命(タゴリヒメ)だとか、湍津姫命(タギツヒメ)だとか、市杵島姫(イチキシマヒメ)とか、それぞれ説があり、どうにも決めかねているようだ。
宗像神社については、もともと田心姫命を祀っていたのだという。
『尾張志』(1844年完成)では、深島社の田心姫命は間違いで、市杵島姫を深島社、武嶋社を湍津姫命、宗像社を田心姫命にすると、『日本書紀』に当てはまるから上手く収まっていいんじゃない? 的なことを書いている。でも、それは筆者の推測であって確実ではないからもっと詳しい人が検討してくださいよろしくと逃げ道も用意している。『尾張志』がまとめられたのは1800年代のことで、1610年の創建から200年以上の歳月が流れている。その頃になるとすでに詳しいことは分からなくなっていたのだろう。
武嶋社というのは今はないようで、これも『尾張志』によると、瀧嶋社として浅間町の浅間社の摂社になったという。浅間町の浅間社というと冨士浅間神社のことだろうか。だとしたら、現在はそれに当たるような境内社はなさそうな感じだ。
そもそもの話でいうと、本家の宗像神社ですら三女神をどこで祀るかの混乱がある。
『古事記』では、沖ノ島の沖津宮に多紀理毘売命(タギリビメ)が、大島の中津宮に市寸島比売命(イチキシマヒメ)が、田島の辺津宮(へつみや)に多岐都比売命(タギツヒメ)が祀られていることになっているのだけど、『日本書紀』では沖津宮に田心姫(タゴリヒメ)、中津宮に湍津姫(タギツヒメ)、辺津宮に市杵嶋姫(イチキシマヒメ)とあり、それも途中で入れ替わったりしている。
宗像神社でも時代の変遷で何度か入れ替わっているようだけど、現状としては、沖津宮に田心姫神(タゴリヒメ)、中津宮に湍津姫神(タギツヒメ)、辺津宮に市杵島姫神(イチキシマヒメ)ということで落ち着いたようだ。
浄心の宗像神社はといえば、田心姫神という確信が持てなかったからか、角が立たないようにという配慮からか、三女神と徳川義直を祀ることにしたようだ。
それ以上のことはよく分からないので、宗像三女神問題は再び棚上げということになる。

弁天通に面する参道入り口に金属製の細い鳥居が建っている。一応、鳥居らしい格好はしているけど、ここまでアレンジしてしまうともはや鳥居と呼ぶことがためらわれる。

牛に乗った弁天像。ちょっとシュールだけどこれにはちゃんとしたわけがある。
この通りが弁天通と呼ばれるようになったのは、宗像神社が由来だろう。イチキシマヒメは神仏習合で弁才天と同一視された。
この弁天像がいつ作られたのかは分からない。弁天通商店街と名付けられる前だったのか後だったのか。
一時、堀川沿いの空き地に捨て置かれていたようで、それが再び戻されることになり、弁天さんが七福神を連れて里帰りしたんだと住人は喜び、弁天以外の七福神像も作って飾ることにしたのだとか。
このあたりの浄心という地名は、交差点角にある浄心寺から名付けられた。
江戸時代後期の1811年に建立された曹洞宗の寺で、地元では浄心観音と呼ばれて親しまれているそうだ。
毎年6月9、10日に行われる天王まつり(弁天まつり)では、弁天通に露天が並んで賑わうらしい。

徳川家の神社だったものを一般に公開して村社に列したのが明治7年(1847年)のこと。
明治22年(1889年)に現地に移された。
第二次大戦の空襲で社殿が焼失。
昭和27年(1952年)に本殿などが再建された。
義直直筆の社号額があるそうだけど、表には架けられていない。

境内社の前にブロンズ製の狛犬がいたらしいのだけど、見落としてしまった。拝殿前の境内にはそれらしいものがなかったから、拝殿右手の奥へ入っていたところにあるのだろう。
江戸時代末期の1861年に伊藤萬蔵が他の2名と共同で寄進したものだそうだ。
尾張国中島郡平島村(現一宮市丹陽町平島)に農家の息子として生まれた伊藤萬蔵は、丁稚奉公から独立して店を構え、幕末から明治の混乱期を巧みに乗り切って、米相場などで大成功をおさめた人物だ。
しかし、ただの山師ではなく、生涯神仏への感謝の気持ちを忘れず、95歳で亡くなる少し前まで寺社に石造物などを寄進し続けた。65年間で、その数は数百にのぼるという。
その萬蔵が29歳のとき初めて寄進したのが、宗像神社にあるブロンズの狛犬だった。
単独の寄進は35歳のとき、実家の菩提寺である常保寺(現一宮市浅野)に石灯籠一対を納めた。
境内社に金刀比羅社、須佐之男社がある。
木造の金箔塗の狛犬が本殿と金比羅社にあるようだ。

クスノキなんだけど、なんでこんな姿になってしまったのだろう。

和徳稲荷社も同じく明治22年(1889年)に上御深井からこの地に移されたというのだけど、上御深井というのがどこなのかちょっと分からない。


朱塗りの鳥居は桜の木を取り囲むように建っている。桜の花の時期は、和徳稲荷社自体が花に埋もれるようになる。
見逃した狛犬もいるし、チャンスがあれば桜の頃にもう一度出向きたい。
【アクセス】
・地下鉄鶴舞線「浄心駅」から徒歩約2分
・駐車場 なし
・拝観時間 終日
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