西区浅間町の冨士浅間神社は仮住まいのはずが定住した

神社仏閣(Shrines and temples)
冨士浅間神社外観

 名古屋城の西、堀川を渡って300メートルほど行ったところに冨士浅間神社はある。
 今も昔も、地理的に名古屋から富士山は見えない。高い展望台などに登っても、手前の山並みに遮られて富士山の姿を見ることは叶わない。もっと南へ下って、南知多や渥美半島、三重県の伊勢あたりからは見えることがあるそうだ。
 古来から富士山は霊山として信仰の対象だったのだろうけど、富士山信仰が一般化して流行したのはやはり江戸時代に入ってからだった。富士講という組織が全国に各地にたくさん作られた。いうなれば富士山愛好会みたいなもので、グループで富士山に向かって拝んだり、お金を集めて代表者が富士山に登ったりした。富士塚というのもその頃作られたもので、ミニチュア冨士に登って富士山登山気分を味わった。
 名古屋には浅間神社がいくつかある。四間道(西区那古野1)の浅間神社や、中区大須2の富士浅間神社などがそうだ。
 その中で浅間町にある冨士浅間神社が現存する中では一番古い歴史を持つ浅間神社かもしれない。

 創建は室町時代前期の1398年。南北朝時代が終わったのが1392年だから、その少しあとだ。
 三谷源太夫(前山源太夫? 前山の源太夫?)という人物が富士浅間の社(富士山本宮浅間大社のことか)に参拝して勧請したのが始まりという。当初は東区の富士塚町にあった。
 富士塚町は1976年に廃止された町名で、今の東桜のあたりを指す。現在、冨士神社があるところに元の冨士浅間神社があった。桜天神社と同じ並びの桜通沿いにある小さな神社で、以前に訪れたことがある。
 ちょっと話がややこしいのだけど、順を追って説明するとこうなる。
 1610年、名古屋城築城にあたって浅野幸長が東区富士塚町の冨士浅間神社に普請小屋を建てることになり、神社は城西の浅間町に移された。
 その後、江戸時代になって再び元の冨士浅間神社があった場所に冨士神社が建てられることになる。どうやら浅間町に移るのは名古屋城築城の間だけという約束で、築城が終わったら元の場所に帰るということになっていたらしい。しかし、名古屋城ができて以降も浅間町に定住を決めて戻ってこないということになり、仕方がないので元の場所に再建したということのようだ。
 オリジナルはよそへ移ったけど、元の場所に分身ができたみたいな感じで、どちらがオリジナルか判断が難しい。
 明治以降、冨士浅間神社は村社から郷社になっている。
 名古屋城築城前の1582年に、富士塚町にあった冨士浅間神社に徳川家康が参拝に訪れたという記録が残っている。
 ちなみに、冨士神社から1キロほど西にある桜天神社には加藤清正が名古屋城築城の指揮を執る本陣を置いていた。その頃の桜天神は萬松寺の鎮守で、このとき萬松寺を大須に移して、桜天神はそのまま残されることになった。



冨士浅間神社南鳥居

 冨士浅間神社の冨の字は、うかんむりではなく、わかんむりの冨を使っている。冨が旧字体とかではなく、どちらが正解でどちらかが間違っているというわけでもない。どちらも正しく、どちらも同じ意味だ。
 冨士で使う場合、うかんむりの上の点を人に見立てて、聖なる山の上に人は立ってはいけないからわかんむりの冨にしたとか、点を神に見立てて神の姿は人には見えないものだから冨にしたなどの説がある。
 他にもいくつか説があるようだけど、どれも俗説といえばそうだろう。北口本宮冨士浅間神社などは点なしわかんむりを使っているけど、浅間神社総本社の富士山本宮浅間大社は点在りの富を使っている。各冨士神社のちょっとしたこだわりという程度かもしれない。



冨士浅間神社東鳥居

 東鳥居。



冨士浅間神社拝殿

 浅間神社ということで祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)。
 富士山を神格化した神は本来、浅間大神(浅間神)だった。それがいつしか、コノハナサクヤヒメとなり、各地の浅間神社の祭神として定着した。
 コノハナサクヤヒメは火の神であり、水の神でもある。
 アマテラスの孫で天孫降臨のニニギは、地上で美しいコノハナサクヤを見初め、結婚を申し込んだ。喜んだ父親のオオヤマツミ(大山祇神)は、それじゃあ一緒に姉ももらってくださいということで、イワナガヒメ(石長姫)も差し出したところ、イワナガヒメは醜いからけっこうですと送り返されてきてオオヤマツミは大怒り。コノハナサクヤは繁栄をもたらし、イワナガは永遠の命をもたらしたのに、それを受け取らなかったことで寿命は短くなるだろうと告げたのだった。
 コノハナサクヤは一晩で子供を身ごもるも、ニニギはそれは自分の子供ではないんじゃないかと疑った。自分が降臨する前に国津神との間にできた子供ではないのかと。疑いをかけられたコノハナサクヤはそれを晴らすため、もし天津神の子なら燃える火の中でも産まれるでしょうといい、火を放った産屋に籠って3人の子供を産んだ。
 それが、ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)で、ホオリの孫が初代天皇の神武天皇となる。海幸彦、山幸彦の話はよく知られているところだけど、真ん中のホスセリ(火須勢理命)は影が薄い。
 ニニギノミコトというのは天孫降臨で有名ではあるものの、実はたいした活躍をしていない。結婚から出産に至るいきさつでもかっこ悪いし、日向まで行けたのもサルタヒコの導きがあったからだ。もともと降臨はアマテラスの息子でニニギの父・アメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)がやるはずだったのに、地上は危ないとかごねて息子のニニギに押しつけたという経緯がある。ニニギも地上に降りるのは気が進まなかったのかもしれない。
 コノハナサクヤヒメがいつどういういきさつで富士山の神となったのか、今ひとつよく分からない。火の中で子を産んだということから来ているのだろうけど、富士山本宮浅間大社の社伝では、水の神で富士山の噴火を鎮めるために祀られたということになっている。
 日本最高神のアマテラスは女神だし、冨士の山はコノハナサクヤヒメが守っている。邪馬台国も女王卑弥呼になって戦乱が収まったとされる。日本は女神が守っている国という言い方ができそうだ。



冨士浅間神社提灯




冨士浅間神社本殿屋根




冨士浅間神社手水舎




冨士浅間神社国府宮なおいぎれ

 国府宮神社(尾張大國霊神社)のはだか祭で授与される「なおいぎれ(儺追布)」のような布が笹に結ばれて奉納されている。どういう関係でここに納められているのかは分からない。冨士浅間神社と国府宮神社は直接関係がないと思うのだけど。



冨士浅間稲荷社




浅間稲荷社の社と朱鳥居

 浅間稲荷社。



冨士浅間神社境内社

 神明社、白山社、八幡社、津島社、宗像社、金比羅社などの境内社がある。 



冨士浅間神社江川橋

 かつて境内の西を江川(えがわ)という川が流れていた。今はもう姿を消してしまってない。
 その江川に架かっていた江川橋の親柱が境内に移されている。
 名古屋市道江川線という道路名は、かつて流れていた江川から来ている。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約2分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 
記事タイトルとURLをコピーする
コメント
コメント投稿

トラックバック