深島神社は宗像三女神のうちの誰を祀っているのか

神社仏閣(Shrines and temples)
深島神社参道

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市北区柳原(やなぎはら)にある深島神社は、宗像三女神の誰かを祀る神社だ。問題は、三女神のうちの誰か、ということだ。
 1964年に北区役所が発行した『北区誌』によると、室町時代中期の1450年に九州福岡の宗像神社(宗像大社)から田心姫命(タゴリヒメ)を勧請して創建されたとあり、明治後期から大正にかけて編さんされた『名古屋市史』によると、祭神は湍津姫命(タギツヒメ)であるという。神社の鳥居横の由緒書きは『北区誌』にならったのか、田心姫命と書かれていた。
 しかし、江戸時代後期の1844年にまとめられた『尾張志』を読むと話がややこしくて頭が混乱する。
 まず深島は地名としては「ふかしま」だけど、古い社名は「シムトウ」または「シムタウ」なのだという。今風に言うと、「しんとう」ということだろう。
 で、言い伝えでは祭神をタギツヒメとしているのだけど、それは間違って伝わったもので、本当は市杵島姫(イチキシマヒメ)ではないかというのだ。
 宗像神社の深島社で祀っているのはイチキシマヒメで、タギツヒメを祀るなら武島社でないといけないのだとかどうとか。タゴリヒメというなら宗像社のはずだとも。
(『尾張志』は表記が難しくて何が書いてあるのか分からないところが多くて、私の理解が間違っている可能性もある。現代語訳版が欲しい。)
 ただ、『尾張志』も筆者の考えではそうじゃないかと推測するというだけで断定はしていない。あとはもっと詳しい方よろしくみたいな逃げを打っている。
 ちなみに、柳原の地名は、かつてこのあたりが入り江の沼地だった頃、柳の木が多かったことから名付けられたといわれている。
 深島も古い地名のようで、一説では湿地の中にそういう名前の島があったともされる。
 あるいは、宗像神社絡みの命名かもしれない。

 宗像大社について簡単に説明しておくと、一般的に宗像大社というと、宗像市田島にある社のこととされることが多い。本来は沖ノ島の沖津宮と筑前大島の中津宮をあわせた三社の総称だ。田島の社は辺津宮(へつみや)という。
 それぞれ、沖津宮でタゴリヒメ( 田心姫神)を、中津宮でタギツヒメ(湍津姫神)を、辺津宮でイチキシマヒメ(市杵島姫神)を祀っている。
 沖ノ島は神の島と呼ばれ、現在でも女人禁制で、男性も素っ裸で禊ぎをしないと上陸することが許されない。8万点ともいわれる出土品のすべてが国宝に指定されており、海の正倉院の別名を持つ。宗像と沖ノ島関連は世界遺産暫定 リストに載っていて、今年中にも世界遺産に登録されるかもしれない。

 結局、深島神社の祭神は誰なのか。
 それは、かつてこの神社が深島弁才天と呼ばれていたことがヒントになるのではないか。宗像三女神の中で一番の美人とされ、神仏習合でインドのヒンドゥー教の女神・弁才天と同一視されたのがイチキシマヒメだった。
 日本各地に7千以上あるとされる宗像神社、厳島神社関係の神社では、三女神をセットで祀っているか、単体で祀る場合はイチキシマヒメのことが多い。
 とすれば、深島神社も単純に考えてイチキシマヒメでいいんじゃないかと思うけど、どうだろう。別にタゴリヒメでもタギツヒメでもかまわないし、実際そうなのかもしれないけど、弁天様といえばやはりイチキシマヒメでないとおかしい。

 ついでに書くと、日本三大弁天は、琵琶湖の竹生島にある竹生島神社、江の島の江島神社、広島宮島の厳島神社とされている。もちろん、本家は宗像大社だ。
 名古屋はあまり弁才天とは縁がないところなのか、有名どころでいうと川原神社にある弁天社くらいしか思いつかない。
 ところで、弁才天と弁財天とどちらが正しいんだろうと思ったことはないだろうか。基本的には弁才天の方が正式とされているようだけど、才能を求めるか財宝を求めるかによって、それぞれが決めればいいのかもしれない。



深島神社

 誰がいつ創建したのかははっきり分かっていない。ただ、江戸時代より前には違いなく、室町か、もしくはもっとさかのぼるかもしれない。
 このあたりは川がたびたび氾濫して水害にあったというから、それを鎮めるために九州から水の女神を呼んだということだろうか。あるいは、九州から来た宗像氏関係の一族がこのあたりに住みついて、故郷の祖先神を祀ったとも考えられる。
 名古屋城から見て鬼門の方角に当たり 尾張藩からも庶民からも崇敬されたという。
 かつて境内は2000坪もあったといい、境内の西に流れる川には立派な橋が架かっていたそうだ。川の痕跡はすでに残っていない。
 明治になって村社になったものの、敷地は10分の1近い200坪あまりまで縮小されてしまった。
 社殿は第二次大戦の名古屋空襲で焼失。
 現在の本殿などは戦後の昭和27年に建て直されたものだ。



深島神社拝殿




深島神社拝殿から見た本殿




深島神社稲荷社

 境内社には、稲荷社の他、牛頭天王社、荒神社、石神社がある。



深島神社霊石

 尾張藩初代藩主の義直の命を受けた神主の三谷左内が木曽の山中で拾ってきた霊石らしい。どうやってこんなに大きくて重たそうな石を木曽の山から持ってきたのだろう。



深島神社さざれ石

 さざれ石。



深島神社ご神木の桜




深島神社裏手の鳥居




深島神社社殿と木のシルエット




城北神社

 深島神社の西100メートルくらいのところに宗像神社がある。またの名を城北神社ともいう。
 城北荘という大きな団地の中庭に鎮座するロケーションに驚いていたら、この神社はもう閉店しましたみたいな貼り紙があって二度びっくりした。入り口が閉ざされていて、もうこの神社は終わったので他へ詣ってくださいと書かれている。そんなことがあるものなのか。お世話をする人がいなくなったのかもしれないけど、距離感からしても祀っている神からしても、深島神社と無関係のはずがなく、ついでにお世話するくらいはできそうに思うのだけど、小さな社といっても内情はなかなかややこしい問題があるのかもしれない。
 それにしても、この神社の存在が深島神社についての理解を更に難しいものにしている。深島神社の2000坪の敷地内にあったものなのか、そうではないのか。ちらっと聞いた話によると、深島神社よりもこちらの宗像神社の方が古いともいう。
 こちらでは宗像三女神をまとめて祀っている。城北神社というのはあとから付けられた名前で、もともとは宗像神社だったと思われる。説明板には括弧して弁天社とある。
 何故、深島神社とこの距離感で同じ女神を別に祀る必要があったのか。両者の成立過程などの調べがつかないので、これ以上は知りようがない。深島神社は宗像神社のどこから勧請してどの女神を祀っているのかという最初の問いに戻ってしまう。何故、深島神社では三女神じゃなかったのか、という点も疑問だ。
 大胆な予想をするならば、実はこちらの宗像神社の方が最初にあって、深島神社はここから一女神を勧請したというのはどうだろう。さすがにそれは大胆すぎる推理だろうか。
 名古屋市西区浄心にも宗像神社があるようだから、そちらに行ってきてから宗像問題の続きを考えることにしたい。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「名城公園」より徒歩約5分。
 ・駐車場 たぶんなし
 ・拝観時間 終日
 
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