
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm
昨日今日と、縁もゆかりもないはずの山田重忠を中心とする山田氏のことが気になって頭から離れない。長母寺、長父寺(大永寺)、長兄寺(長慶寺)と3寺コンプリートしたことで関係者を肩に乗せて連れてきてしまったのかもしれない。しばらく前から背中に鈍痛を感じるのは気のせいと思いたい。
今回紹介するのは長父寺に当たるとされる大永寺だ。地名にもなっているから守山区周辺の人にとってはそれなりに馴染みがあるだろうか。
現状、山田重忠に関して、私の頭はひどく混乱している。主な要因は、父母兄を弔うために建てたとされる寺に関する年代のつじつまが合わないせいだ。昨日も書いたのだけど、長慶寺の創建年がはっきりしないというのがまずある。建長年間(1249年-1256年)では明らかに遅すぎるし、南山和尚(1254年-1335年)が開山したという話とも矛盾する。
他のふたつの寺は、長母寺(母)が1179年で、大永寺(父)が1190年という。重忠の生まれは不明ながら承久の乱で戦死しているので没年は1221年だ。そのとき50代だったという。一緒に連れていった孫の兼継が14歳だったというから、結婚が早かったこの時代としては妥当なところだろう。
一見おかしなことはないように思うけど、母の寺から父の寺までの間に11年間あることをどう思うべきなのか。父の重満は、1181年に起きた墨俣川の戦い(源行家と平家軍の戦い)に行家軍として参加して討ち死にしている。重忠の兄・重義も同じく戦死した。
父を弔うためとされる寺を父の死後9年近く経ってから建てたというのはやや遅すぎないだろうか。母親は若死にだったのか、父の戦死の2年前に寺ができている。父と一緒に戦死した兄の寺は同時進行とは考えにくいから、その数年後ということになるだろう。
重忠の生まれ年が1165年とか1168年だとすると(没年の1221年時点で50代と仮定して)、今度は母の寺の1179年というのは逆に早すぎることになる。その頃の重忠はまだ10代前半だ。それに、父が健在のときに父を飛び越えて母親を弔うための寺を年若い息子が創建できるだろうかというのがある。
これらの矛盾というかつじつまが合わない年数をどう理解すればいいのか分からず混乱しているというのが現状の私なのだ。単に寺の創建年数が間違って伝わっているだけかもしれないし、3寺全部を重忠が建てたわけではないということかもしれない。
重忠は南区にあった星崎城の城主だったと伝わっている。築城したのは1180年前後(1177-1181年)だという。これも1165年生まれではやや無理がある。もしかすると生まれた年はもっと早い1160年代前半か1150年代終わりで、戦死したときは60代だったのだろうか。若くして父親をなくして家督を継ぐという例はたくさんあっても、父親や兄が存命中の10代の次男坊が城を築城したり寺を建てたりといった例があるのかどうか。
星崎城があったとされるのは、南区本星崎町(現在、笠寺小学校があるあたり)で、重忠が生まれたと伝わる北区山田(山田幼稚園のあるあたり)からは直線距離で12キロほど離れている。この位置関係についても今ひとつ理解できない。どういう経緯で南区に星崎城を築城して、どうして寺を建てたのが守山区だったのかも。
星崎城があった近くに現在も残る光照寺は重忠が建てたとされる寺のひとつだ。おそらく星崎城主時代のものだろう。城造りと平行したものだったとしたら1179年の長母寺よりも先だっただろうか。
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を破った源氏の棟梁・源頼朝は、守護・地頭を置く権利を後白河法皇に認めさせる。これをもって鎌倉幕府成立とするのが最近の定説になりつつある(イイハコ作ろう鎌倉幕府)。このとき、重忠は尾張国山田荘の地頭に任じられて御家人となっている。
これを機に星崎城から移ったとして、移住先がどこだったのかが分からない。生まれたとされる北区山田の邸宅は、このとき移り住んで拠点とした屋敷という可能性もある。
だとすれば、守山に寺を建てたのは1185年から戦死する1221年までの間と考えた方がつじつまが合う気がするけどどうなんだろう。長母寺の1179年というのは動かないのだろうか。
御家人時代の重忠が山田荘でどんな暮らしをしていたかは分からない。戦のない平和な世の中を喜んでいただろうか。
しかし、1221年、源頼朝の血統が三代で途絶えて弱体化した鎌倉幕府を倒すべく後鳥羽上皇が挙兵すると、重忠もそれに応じてはせ参じた。恩義があるはずの幕府側ではなく朝廷側についたのはどんな理由からだったのだろう。14歳の孫まで連れていっているところを見ると討ち死に覚悟ではなく重忠なりの勝算があってのことだっただろうか。
私自身が整理できていないまま書いているので読んでいる人も上手く理解できないと思う。今のままでは全然納得できないから、もう少し理解を深めるためにも近いうちに重忠の屋敷があったとされる北区山田を訪ねてみようと思う。できればそこで肩の荷を降ろしたい。
山田氏を知るためには、少なくとも重忠の祖父・浦野重直、その父の源重遠までさかのぼる必要がありそうだ。
以下、大永寺について簡単に紹介しておきたい。

1190年、山田重忠が小幡に建てた寿昌院が始まりとされる。
その後、戦火で焼けて衰退していたものを、1521年に重忠の末裔で小幡城主(または星崎城主)の岡田重頼が再興して寿昌院大永寺とした。
小幡から現在地に移ってきたのは江戸時代前期の1617年で、岡田善同が名古屋城築城の際に余った木材で再建したとされる。
このとき近くにある大永寺熊野社も創建されたとのことだ。
1891年の濃尾地震で倒壊。第二次大戦の空襲で焼失。
最盛期は末寺12を持つ寺になっていたという。
本尊は源信(恵心僧都)が彫ったと伝わる釈迦如来像。




現在の本堂その他は平成8年に建て直されたものとのことだ。その中で唯一残っている古いものがこの鐘楼だ。現在は鐘楼としては使われておらず、鐘は鐘楼門に移されている。

境内には樹齢400年近い犬槇(イヌマキ)と樹齢500年近い羅漢槇(ラカンマキ)の木がある。
鐘楼門前にはしだれ桜もある。


現時点で断定的なことは書けないのだけど想像を交えて考えると、これらの3寺は、重忠が創建したとしても父や母を弔うとは別の目的で建てられたものだったのかもしれない。隠された理由があったとかよりも、後の時代の人々が重忠をたたえる美談として伝えたというのは考えられることではないだろうか。
いずれにしても山田氏問題はもう少し尾を引くことになりそうだ。すっきりしないけど仕方がない。
【アクセス】
・ゆとりーとライン「川宮」から徒歩約9分。
・無料駐車場(このときは閉じられていた)
・拝観時間 不明(夜は門が閉まるかどうか分からない)
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