
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm
名古屋市守山区小幡中にある長慶寺(ちょうけいじ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武人で御家人の山田重忠が建てた寺のひとつとされる。母のための長母寺、父のための長父寺、兄のための長兄寺がそうだということは長母寺を紹介したときに書いた。
長母寺はカッコイイ禅寺だと思う
長兄寺は字を変えて長慶寺に、長父寺は名を改めて大永寺になったという。
一方、寺伝によると山田重忠の孫に当たる山田兼継を弔うために弟の正親が建長年間(1249年-1256年)に創建したとなっているそうだ。
どちらが本当なのか分からないし、どちらも正しくないのかもしれない。というのも、開山したという南山和尚(南山士雲)が生まれたのが1254年とされているからだ(1335年没)。建長年最後の年1256年としても年代が合わない。
山田重忠が創建したとなると開山が南山和尚ということはあり得ない。重忠の生年は不明ながら(1165年?)没年は1221年と分かっている。
山田重忠が創建したという話は、尾張藩最初の地誌『張州府志』(1752年)に出てくる(のちに改訂版ともいえる『尾張志』1844年が編さんされる)。500年も経ってから書かれたものだから間違いや混乱があっても仕方がないことではある。ただ、話としては山田重忠が父母兄を思って三つの寺を作ったという方が収まりがいい。山田重忠という人は信心深い人でこれ以外にもいくつかの寺を建てているから、あれもこれも重忠さんが建てたことになってしまっているというのはあるかもしれない。
いずれにしても山田氏が建てた寺ということは間違いなさそうだ。
山田重忠についてはあらためてどこかで書くとして、山田兼継(かねつぐ)と南山和尚について少し補足しておく。
生まれは1208年頃。重継の長男。
1221年、後鳥羽上皇が倒幕を目指して挙兵した(承久の乱)のに応じた祖父・重忠、父・重継に従って14歳ながら戦に参戦。
しかし負け戦となり、重忠は自害、重継は幕府側によって殺され、捕まった兼継は越後国に流された。
7年後に許されたのち出家して僧として一生を送った。
この山田兼継の没年さえ分かれば長慶寺の創建年もはっきりするのだろうけど、それが分からないのが混乱を生んだ一因になっている。
南山士雲。生まれは遠江で、幼くして京都の東福寺で修行して、長慶寺を開山。
のちに鎌倉の建長寺、京都の東福寺などに移る。
無縫塔が本堂裏手に建てられている。

少し南から見たところ。かつてこの道は山門へと続く参道だったと思われる。おそらく、旧瀬戸街道から続いていたのだろう。
現在は道沿いに民家が建ち並んでいる。

松栄山長慶寺だと思っていたら、山門前の石柱には榮松霊山 長慶禅寺とある。松栄山ではなく栄松山が正しいのか。
山門が閉じていて入れないのかと思いきや、脇が開いていて入ることができた。

臨済宗東福寺派。
日本における臨済宗の開祖は栄西(1141年-1215年)とされる。京都五山、鎌倉五山はどこも臨済宗だ。
東福寺派は、1235年に宋に渡って1241年に帰国した円爾(えんに)により始まる。開山の南山和尚は円爾に教えを受けたとされる。
大本山は京都東山の東福寺。
長母寺は天台宗の寺として創建され、のちに臨済宗東福寺派となった。
本尊は聖観世音菩薩。

寺の本堂の屋根が好きだ。いい屋根を見ると屋根だけ撮りたくなる。

本堂は新しいけど、擬宝珠(ぎぼし)は古そうだ。以前のものを流用したのかもしれない。
擬宝珠の起源にはいくつか説があって、主な説として仏教の宝珠説と葱坊主説がある。
釈迦の骨壺である舎利壺の形に似ているところから来ているというのが仏教由来説。
ネギ坊主に形が似ていることから葱帽子の読みに擬宝珠という字を当てたというのが葱坊主説。ちょっと無理があるか。ネギの臭みが魔除けになると信じられていたという話がある。
古くは伊勢の神宮の正殿の高欄に飾られた五色の宝珠が元になったという話もある。この大元を辿ればおそらく中国に辿り着く。古代仏教の聖地インドまでさかのぼれるかもしれない。古い中国の絵に宝珠らしきものが描かれているという。
伊勢の神宮が現在のような社殿を持つ宮になったのは持統天皇(在位690年-697年)の時代だと考えられている。その頃には当然中国大陸や朝鮮半島から仏教関連のあれこれが入ってきているから、宝珠のルーツを仏教思想に見ることは可能だろう。
日本で初めて擬宝珠、もしくはそれらしきものが登場するのは奈良の平城京にあった二条大橋だという。当初は朝廷関連の建物でしか使えなかったらしい。
現存する古いものとしては、伊勢の神宮内宮にある風日宮橋の欄干のものがある。1498年の銘が彫られている。厳島神社のものは1546年で、京都の宇治橋は1636年。こうして見てみると、擬宝珠が一般的なものとなったのはそれほど古い時代というわけではなさそうだ。あちこちで作られるようになるのは室町時代以降だっただろうか。

屋根瓦の紋は寺の紋だろうか。
紋というと山田氏の紋が丸に八で、現在名古屋市の市章となっている丸八のルーツがそこにあるという説がある。名古屋市の市章は明治40年に定められたもので、尾張徳川家が目印として使っていた合印が元になったとされている。それを辿ると山田氏の家紋にルーツがあるというのだ。これも諸説あって実際のところは分からない。
山田氏は清和源氏満政流の流れをくむ源氏の家系だ。源氏で八というと鶴岡八幡宮の額の鳩をかたどった八の字を思い浮かべる。八幡宮の八でもあり、鳩は八幡宮の神の使いとされている。
こじつけかもしれないけど、源氏の八と山田氏と尾張徳川家と名古屋がどこかでつながっているというのはまんざらでたらめでもない気がする。

この話は大永寺編へとつづく。
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