
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm
愛知県瀬戸市の奥にある岩屋堂。紅葉の名所としてちょっと知られた国定公園だ。
その手前の集落にひとつの神社がある。岩屋堂へと続く道路からは少し奥まったところにあって、入り口の鳥居が遠くに見えていつも気になっていた。岩屋堂はここ10年くらい、何度となく出向いているのにこの神社に一度も立ち寄ったことがなかった。行きは時間がないし、帰りはだいたい日没で寄る気になれない。この前、浄源寺の紅葉を撮りに行った日、少し時間があったので初めて行ってみることにした。
石柱に村社八幡神社とある。八幡神社だというのもこのとき初めて知ることになった。他と区別するため地名から鳥原八幡神社と呼んだ方がいいだろうか。

境内に由緒書きのたぐいはなく、ネットにも情報がほとんどないため、創建などの詳しいことは調べがつかなかった。
このたりは周囲に神社が全然ないところで、それほど古くから人が住んでいた土地ではないのかもしれない。とはいえ、江戸時代くらいはさかのぼれるんじゃないかと思う。八幡社ということを考えると、戦国時代くらいの可能性もある。




社殿は古いものではない。戦後に建て直されたものだろう。

ところで、何故八幡神社では応神天皇を祀っているのだろう。八幡神といえば応神天皇と相場が決まっているというのは誰が決めたことなのか。
応神天皇について掘り下げようとすると、ものすごくややこしくて大変なので、今回はさらっと流れだけ説明するにとどめたい。何がなんだか話が分からず、私も混乱から抜け出せずにいる。
応神天皇は第15代の天皇で、実在が確認されている最初の天皇だ。そもそもそれが不思議なのだけど、父親は14代仲哀天皇で、母親は三韓征伐(朝鮮半島に攻め込んで新羅、百済、高句麗をやっつけたとされる話)で知られる神功皇后とされながら、ふたりは実在しないというのだ。『古事記』、『日本書紀』は活躍が描かれているし、応神天皇はいたけど父親と母親は神話の話と言われてもいまひとつ納得できない。
まあ、実在どうこうは置いておくとして、じゃあ応神天皇は神様として祀られるほど立派な功績を挙げたかというと、どうやらそうでもないらしいのだ。これといった武勇伝は伝わっていない。
そもそもでいうと、八幡宮の総本社は九州大分県にある宇佐神宮なのだけど、応神天皇と宇佐との関わりも伝わっていない。宇佐神宮はもともと素朴な土地神信仰から始まったのではないかといわれている。創建は500年代半ばという。
応神天皇が生きていたのは400年前後とされているけど、そのあたりもはっきりしたことは分からない。
八幡はもともと「やはた」とよんでいたとされている。渡来人の秦氏との関わりや、イスラエル人やヘブライ語との関わりを指摘する説もあって、そういった話になると私にはちょっと手に負えない。渡来人の神が朝廷と結びついて、朝廷側の人間が応神天皇の名前を利用したなどと説明されると納得してしまいそうにもなる。
応神天皇の別名とされるホムタワケやホンダワケというのも日本語らしくない響きといえばそうだ。譽田の他、品陀和氣命の字が当てられたり、大鞆和気命(オオトモワケ)という別名もある。
八幡信仰は奈良時代くらいから神仏習合して八幡大菩薩とも呼ばれるようになった。「はちまん」という読み方になったのはそれ以降ではないかと考えられている。
特に武勇に優れた天皇でもなかったのに、いつからか武家の信仰の対象になった。平安時代の武家の平氏も源氏も、八幡神を信仰していた。それは、天皇、朝廷側のアマテラス勢力に対する別の強い神が必要だったからではないかという指摘がある。ただ、宇佐八幡は皇室も大事にした神で、伊勢の神宮に次ぐくらいの地位があった時代もあった。平安時代初期の道鏡絡みの宇佐八幡宮神託事件は特によく知られている。
八幡神社が全国的な広がりを見せ始めたのは平安時代以前のようだけど、源頼朝が幕府の中心として鎌倉に鶴岡八幡宮を置いたことも大きなきっかけになった。御家人が守護神として自分たちの土地に八幡宮を作り、やがてそれが全国各地に広がっていったようだ。
現在でも日本全国に数千とも数万ともいわれる八幡社がある。稲荷社に次ぐとも、稲荷社を超えるともいう。
八幡宮が特別好きという人はそんなにいないだろうけど、八幡神は日本の地にびっしり根を張っていることを思うと、それはそれでなんだか不思議な感じもする。そうして、最初の問いに戻る。何故、応神天皇なのだろう、と。
いずれ機会があれば、もう少しこの問題は掘り下げて考えてみたい。

境内社は津島社の他、神明社と源太社がある。
源太社というのは馴染みがないけどどんな神様なんだろう。




岩屋堂の日暮れは早い。
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