写真ノート<37> ---写真のバックグラウンド

写真ノート(Photo note)
ゴミ捨て場の犬小屋

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 写真には撮った人間のバックグラウンドが必ずある。表面に表れているかどうかは別にして。
 字に性格が表れるように、写真には人間性が出るといわれる。すべての写真がそうではないにしても、人間が撮る以上、人間性といったものを抜きに写真は語れない。
 それは、アナログ時代のフィルムからデジタルに移行した今も変わることはない。科学的にはまだ証明されていなくても、撮る人間の念のようなものが写真に写り込んでいる可能性がないとはいえない。実際には写っていないはずの気配だとか雰囲気だとかいったことを感じる写真というものがあるのは、そういうことなのではないかと考えたりもする。
 今回はそのあたりのことについて少し書いてみることにしたい。

 たとえば味噌汁と茶碗の白ご飯が写された写真があるとする。
 誰かが晩ご飯を紹介するためネットにアップした写真かもしれないし、一年間の外国旅行から帰ってきた人が久しぶりに食べる味噌汁とご飯に感激して思わず撮った一枚かもしれない。あるいは、宇宙旅行から帰ってきた日本人宇宙飛行士が撮った写真だとしたらどうだろう。
 写真にはそれぞれのバックグラウンドがあるというのはそういうことだ。撮られる瞬間にいたるまでの経緯がある。
 人は写真を見る。眺める。読む。考える。想像する。共感する。感動する。何かを感じて、その何かの正体を知りたいと思うことがある。写真はある程度鑑賞者に委ねられている部分があって、そこが写真のいいところであり、難しいところでもあるのだけど、単純すぎては面白くないし、曖昧すぎては落ち着かない。
 いい写真のひとつの例として、パッと見て何が写っているのか分からなくて、よくよく見てみるとなるほどそういうことかと納得するといったパターンのものがある。人はそういう写真を面白いと感じがちだ。謎かけがあって謎解きがある写真。撮り手と鑑賞者の間でキャッチボールが交わされることである種のカタルシスが得られる。
 味噌汁とご飯の話に戻ると、通常、写真は語られない前提で撮られることが多いのだけど、一方で写真は語られる宿命も併せ持っている。写真に興味を持った人間は、撮り手がどんな人間で、写っているものがどういう状況で撮られたのかを知りたがる。たいていは理解して、納得してすっきりしたいためだ。
 なにげなく撮られた味噌汁とご飯の写真には何も感じなくても、宇宙帰りの宇宙飛行士が撮ったと分かればそこに感動や共感を覚えたりする。
 写真は誰が撮ったかによっても価値が大きく変わる。一目見てつまらないと感じた写真でも、高名な写真家が撮ったものと分かると見方が変わったりするし、名のある人気写真家が偽名でフォトコンに応募したら落選するということだってあるはずだ。

 写真に人生経験は必要か?
 個人的に経験至上主義といったものを昔から嫌っていて、写真に人生経験など必要ないと言いたいところではあるのだけど、写真が技術と経験と美意識と才能の総合芸術であるとするならば、経験を軽視することはできないだろう。
 フォトコン入賞者の年齢を見ると、格式のあるフォトコンほど年齢が高くなる傾向がはっきり表れている。表彰式へ行くと、びっくりするくらい年齢層が高い。現在、第一線で活躍している写真家の大半が40代以上だし、森山大道、アラーキー、篠山紀信などは皆70代だ。あの人たちは若い頃から活躍していた写真家だけど、昔より今の方がいいのが撮れてると言うはずだ。
 そう考えると、写真は人生経験がものをいう部分が少なからずあることは認めざるを得ないのではないか。もちろん、経験豊富であるほどいい写真を撮れるといった単純な方程式は成り立たない。世界一周すれば世界的な写真家になれるかといえばなれないし、宇宙飛行士がすべて優れた写真家かといえばそうではない。
 ただ、今写真をやっている20代、30代の人にとってみれば、年を食えば今よりいいものが撮れるようになるというのはひとつの希望になるんじゃないか。基本的に写真は、上手くなることはあっても下手になることはない。撮れば撮るほどよくなっていくのが普通だ。他の芸術のように才能が涸れておしまいということはなく、一生涯取り組むことができる表現方法というのは他にはあまりない。

 写真は氷山にたとえられるかもしれない。氷山の一角という言葉があるように、写真として表れるのは撮り手のほんの一部分に過ぎない。見えていない部分には大きな自分が隠れていて、それが大きければ大きいほど表に表れる部分が輝くように思う。底が浅い写真はどこか分かるものだ。
 経験だけでなく、思想や哲学、教養、知識といったものも必要だと思う。写真は撮り手の総合力が問われる。つまらない写真しか撮れなければつまらない人間だと思われても仕方がない。
 いい写真を撮るためには、自分を磨くしかない。感覚を進めることと、思考を深めること。技術はあとからどうにでもなる。
 たくさん見て、知って、感じて、考えて、理解すること。小説を読んだり、美術館へ行ったり、音楽を聴いたりすることは自分の血肉となり、直接ではないにしても間接的に撮る写真に影響を与える。
 いい写真とは、見る人の心を動かす写真だ。人の心を動かすというのはそんなに簡単なことじゃない。
 他人が自分のすべてを理解してくれるなどというのは幻想に過ぎないことは誰もが知っている。写真も同じだ。主観的には100の写真も、人が見れば10パーセントか20パーセントしか伝わっていないかもしれない。もっと低いことだってある。それはある意味、どうしようもないことだ。より伝わる表現を模索することも大事だけど、もっと簡単なのは、自分のキャパシティーを上げることだ。もし自分自身を10倍の1000にすることができれば、そのうちの10パーセントが伝われば当初の100に当たる。
 誰も自分の写真のよさを理解してくれないと嘆いている暇があったら、自分を高め、深め、前へ進めるにはどうすればいいかを考えた方がいい。
 上手くなるには写真を撮ることももちろん大切なのだけど、撮り手である自分が低い位置にとどまり続けてしまえば写真のレベルはいっこうに上がらない。小手先の技術だけ高めても、人を感動させることはままならない。
 優れた写真を撮るには、自分自身が優れた人間になるしかない。

 私がいつも考えていることは、先へ進むことだ。とにかく前へ行くことだけを考えている。人の理解や結果はいつも遅れてあとからついてくる。理解が追いつかれてしまったら逆に負けだ。どんどん先へ行かないと。
 写真は常に過去の自分が撮ったもので、今の自分はすでにそこにはいない。過去の自分が撮った写真よりも、未来の自分が撮る写真を見たい。それが写真を撮り続ける一番の原動力になっている。
 写真家ならプロとアマチュアとを問わず、いつでもこう思っているはずだ。もしかしたら、今日こそは、あるいは明日こそ、なにかすごいのが撮れるんじゃないか、と。その幻想を抱くことは間違いではないけれど、今ここにはないし、一足飛びに行けるものでもない。毎日休まず歩き続ければいつかたどり着けるかもしれないものだ。
 私もまた、10年後にはもう少しいいのが撮れるようになってるんじゃないかと楽しみにしている。
 
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