
OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO
日本の四季と風景は色でできている。
春の桜色、向日葵の黄色、紅葉の赤、雪の白。
青い空と海、夕焼けの橙色、入道雲の白、新緑の緑。
植物や動物、鳥たちの様々な色。
光にも色があり、人が作り出した人工物も様々な色を持っている。
写真を撮るとき、人は半ば無意識のうちに色を探している。色が人の心理に与える影響は大きい。
今日は写真における色の問題について少し考えてみたいと思う。
色を撮るという観点から被写体を選んだり、撮影地を決めるというアプローチがあってもいい。
色を意識せずに写真を撮っている人はほとんどいないと思うけど、それでは厳密に色を追求して撮っているかといえば意外とそうでもないのではないだろうか。色に関する感覚はわりと漠然としていて、画面上の隅から隅まで自分の意志で色をコントロールして撮っているわけではないだろう。すべての色を自分で決めなければいけない画家と、すでに存在する色を写す写真家とでは、色に対する責任感といったものが大きく違っている。写真家は色を決められないというあきらめから色を決めなくていいという責任放棄に向かう傾向がある。
写真家ができることといえば、自然環境や条件の中から自分なりの最善を選ぶことくらいだと思いがちだ。季節を選び、時間帯を選び、光を選んで撮る。それ以外でいえば、撮るときにフィルターを使うとか、ホワイトバランスを変えるとか、レタッチで色味を変えるとかだろう。彩度やコントラストを調整したり、カラーバランスを変えるといったレタッチ作業もときには行う。
自分は色に関しては充分に敏感でコントロールできていると考えている写真家もある程度はいるだろうけど、果たして本当にそうだろうか。もっと厳密に色について追求すべきなのではないか。少なくとも、多くの写真家はもっと色について自覚的であるべきだと思うのだけどどうだろう。
写真を構成する色は写真家が選べる。いや、選ばなくてはならない。選んで決めていい。
世界の人の色の感覚がどうなのかはよく知らないけど、日本人特有の色に関する感覚というものがある。名前のついた色の和名だけで数百あるし、色そのものでいえば数千はありそうだ。これほど多くの色の名前を持っている国民は日本だけではないだろうか。赤系統の色だけでも、桜色から桃色、緋色、深紅、茜色、紅色、朱色、柿色、褐色、赤銅色、煉瓦色、小豆色などなど、たくさんある。実際にどんな色か正確には分からなくても、日本人として共有する感覚的なものがある。
美術学校で色をどんなふうに教え習っているのかは知らない。一般教養として特殊な色について学ぶ機会はめったにない。心理学で色が人に与える効果を教えたり、カラーコーディネートで学んだりすることがあるくらいだろうか。
写真は色を扱うという点では専門分野といってもいいのに、色そのものについて教えたり学んだりすることは少ない。カメラ雑誌でも色の特集をしているのは見たことがないし、たぶん写真学校でも詳しいことはやっていないのではないか。ホワイトバランスで色温度を変えたりすることは感覚的なことであって、色についてきちんと学んだことにはならない。
色に限らず、写真は科学的なものであるはずなのにいまだに感覚だけが先行しているのはおかしなことだと思う。経験を蓄積してそれを後続に伝えるというのでは、あまりに非効率的で前時代的だ。
写真における色というものが具体的に鑑賞者にどう影響を与えるのかを知った上で、正確な色再現の方法論を確立することが必要だと考える。
写真は結果オーライで、自然や状況を受け入れるしかないという考え方が定着している。たとえそれが自分の狙いとは違ってもそれはそれでよしとする部分がある。実際問題、そういう部分が大きいのは事実だとしても、最初からあきらめていいというわけではないはずだ。
何も考えずにシャッターを押しても、とりあえず写りはする。けど、それでは作品にはならない。記録としての写真と鑑賞に堪える作品とはまったく別のものだ。作品を作ろうと思えば、考えている以上に自分の意志で決定しなければいけないことが多い。
たとえば夕焼けの写真を撮ろうと思ったとき、それは橙色なのか、蜜柑色なのか、茜色なのか、桃色なのか、紫色なのか、そのどれが撮りたいのか。撮れた色をよしとするのではなく、狙って撮ることが大切で、そこを自覚的に撮ってこそ自分の作品に責任が持てるようになる。言い訳するようなことがあればそこで負けている。
感覚に頼れば再現性は低くなり、経験の積み重ねだけでは時間もかかるし限界がある。色の効果について学び、正確に色を再現できてこそ、それが知識となり、技術として身につき、自分の中に蓄積されていく。
写真をやる人間も、やはり美術の勉強をした方がいいし、色に関する専門知識もないよりあった方が有利になる。
色を探し、見つけて、再現する。まずはそのことを自覚的に行うことを提言したい。
撮れた写真の色を無条件に受け入れて正解とするのではなく、自分の意志で最終的に色を決めることが大事な点だ。それは撮る段階でのことであり、レタッチのことでもあるのだけど、撮る以前に自分の中で完成形を思い描いておくことが前提となる。そこから逆算して、いつどこへ行って何をどんな条件で撮るのかを決定する。
写真は撮れるものを撮るものだという考えから、自分の中の完成イメージを再現するものだという考えに切り替わったとき、写真はまったく別のものになる。
思い通りに撮れないことを現実のせいにしてはいけない。思い通りに撮るためにはどうしたらいいかを考えるのが正しいアプローチだ。
写っていることすべてに対して責任を持つということはとても重いことなのだ。全部を自分の意志で決めてこそ、その重さに耐えられる。
青空の青色ひとつ取っても、無責任であってはならない。