
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
春日井市の落合公園の北に松原神社がある。落合公園は桜の季節などにちょくちょく訪れているのだけど、こんなところに神社があるとは知らなかった。
『延喜式』に載っている春日部郡高牟神社はここのことではないかと考えられている。もう一社の候補は名古屋市守山区の高牟神社なのだけど、春日井の松原神社の方が可能性は高そうだ。
もともとこのあたりの地名は高牟(たかむ)といったそうだから、神社の名前も本来は高牟神社だったと考えられる。
創建年ははっきりしないものの、社伝によると711年という。710年が平城京遷都の年だから、奈良時代が始まった翌年に当たる。
中世以降、稲荷信仰が盛んになり、白孤義兼神社が合祀されて高牟稲荷大明神などと呼ばれていた時期もあったようだ。
平安時代末期に作られた『尾張国内神名帳』には松原神社の記載があり、明治に入ってからこの神社がそれに当たるということで松原神社と改称されて現在に至っている。
祭神はタカミムスビ(高皇産霊命)ということで、やはり高牟神社に違いないだろう。
それにしても、高牟神社に関わるときいつも思うのが、どうしてタカミムスビなのだろう、ということだ。
タカミムスビは天地開闢の際、二番目に現れた原初の神のうちの一柱で、非常に古いというか、人格といったようなものを持たない神だ。
娘のタクハタチヂヒメがアマテラスの子供のアメノオシホミミと結婚して生まれたのが天孫降臨のニニギということで、天孫系には違いないのだけど、アマテラスの系統とはちょっと違う。
『古事記』、『日本書紀』の中では登場回数は多くないものの、時にアマテラスよりも指導的な神として力を発揮する場面が描かれている。一部ではタカミムスビこそが天皇家の皇祖神なのではないかという説もある。
天皇家を守護する8神の一柱として八神殿(はっしんでん)で祀られている。
私がどうもよく分からないと思うのは、こういう神を誰がどんな目的で祀った神社を作ろうと考えたのかということだ。もちろん、庶民の信仰ではない。皇室関係かといえばそうではないだろうし、地方の一豪族があえてタカミムスビを祀るだろうか? と思ってしまうのだ。飛鳥、奈良時代における人々のタカミムスビに対する思いや考え方が分からないから、それ以上思考が進まず止まってしまう。
タカミムスビは高木神とも呼ばれ、全国的にいくつかの神社で祀られているものの、それほど多いわけでもメジャーでもない。どういうわけか尾張地方に多い。高牟神社という名前の神社もいくつかあるし、尾張旭の渋川神社などでもタカミムスビを祀っている。
尾張物部氏との関係も指摘されているけど、タカミムスビと物部氏が直接結びつくような気はしない。もし、物部氏が自分たちを守護する神を祀る神社を作ろうと考えたなら、始祖であるウマシマジあたりを祀る方が自然だろう。物部神社や味鋺神社などがそうだ。
あるいは渡来系との関わりを考えるべきなのかもしれない。松原神社の奥の院は白山社という話があって、渡来系の人たちは白山信仰を持っていたともいう。もし松原神社の創建を渡来系の人たちが主導したとするならば、渡来系とタカミムスビとの関係を考える必要が出てくる。
アマテラスを天皇家の皇祖神としたのが天武天皇、持統天皇からであったとするならば、それ以前の人々にとってタカミムスビという神は現在の私たちが考える以上に重要な神だった可能性もある。『古事記』、『日本書紀』に書かれたことと、当時の人たちの知識や信仰心はまったく違うものだったはずで、記紀を基準に考えること自体が間違っていると言えばそうではあるけど、想像するにも限界がある。
タカミムスビという神はどんな神なのかという問いに対する答えはそう簡単には出そうにない。


社殿はなかなか雰囲気があるけど、それほど古いものではなさそうだ。
それよりもさらされ感の強さが気になる。周辺を激しく開発されて境内がえぐり取られるような格好になっているため、なんだかそわそわして落ち着かない気分になる。神社というのは、空間に気をため込んでおかなければいけないところなのだから、どうにかもう少し周囲を囲んでおいてほしかった。
一度抜けてしまった気は二度と戻ってこない。気の抜けた炭酸飲料のように。



近所から神社が集められていて、たくさんの寄り合い所帯になっている。

奉納と書かれた紅白の手ぬぐいが笹の枝に結ばれている。他ではあまり見ないように思う。

江戸時代には境内に松原座という芝居小屋が建てられていたそうだ。神社や寺は江戸時代、庶民が集まる社交場だった。


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