春日井の朝宮神社を紹介する

神社仏閣(Shrines and temples)
朝宮神社入り口

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 春日井市朝宮町にある朝宮神社は何度か訪れている神社で、とっくに紹介したと思っていたらまだ出ていなかったようだ。前に載せたつもりだったのに勘違いだろうか。
 朝宮公園の南にある小さな神社ながら、延喜式に載っている式内社の可能性もある歴史のある神社だ。ただし、山田郡和爾良神社(かにらじんじゃ)の候補は他にも何社かあって、どことも決められずにいるようだ。春日井市上条町にも和爾良神社という名前の神社はあるし、名東区にも和爾良神社はある。そもそも山田郡というのがどこからどこまでかはっきりしていないから、長久手市の景行天皇社さえも候補のひとつになっている。他にも名東区の神明社や春日井市牛山町の天神社も論社として名前が挙がっている。
 神社はその歴史の中で場所が移されたり、他の神社と合祀されたりしているため、延喜式に出ている神社がどこにあってどういう名前だったのか、はっきり伝わっていない場合が多い。昔から変わらずそのままというところの方が少ないはずだ。候補になっているところは我こそはと思っているだろうけど、部外者からしたらそれほど重要なことではないのかもしれない。

 祭神として阿太賀田須命(アタカタス/アタガタス)と建手和爾命(タケタカニ)が祀られている。
 上条町の和爾良神社も同じ神様が祀られているのには理由がある。
 鎌倉時代前期の1218年、上条城主の小坂光善が上条町に和爾良神社を移して和爾良白山神社を建てる一方で、和爾良神社があった場所に加賀の白山比咩神社から勧請して朝宮白山宮を建てたのだという。
 その後、戦国時代に朝宮白山宮は戦火で焼けてしまい、江戸時代に入ってからこのあたりによく鷹狩りに来ていた尾張藩初代藩主の徳川義直によって再建されたのが現在の朝宮神社なのだそうだ。
 朝宮神社にククリヒメ(菊理姫命)が合祀されているのはそういう理由からだ。
 こんな神社のトレードのような形はちょっと珍しいと思うのだけど、朝宮神社と上条町の和爾良神社は姉妹神社のような関係といえるから、この二社が延喜式に載っている和爾良神社と考えるのが自然と思うのだけどどうだろう。反論はあるかもしれないけど。

 阿太賀田須命という神は、大国主6世の孫というのだけど、よくは知らない。オオクニヌシ系列ということであれば、出雲系、国津神ということになるだろうか。建手和爾命はその子孫という。
 いずれにしても和爾氏との関係が深いことは名前からもうかがい知れる。和爾氏の祖神ということだろうか。
 和爾氏は渡来系の有力豪族だったようで、尾張氏よりも古いと考えられている。春日氏や小野氏などと同族という説もあるようだ。のちに尾張氏や丹羽氏に勢力争いで敗れたようで、わずかに神社や地名などに痕跡を残すだけとなっている。
 あるいは、建手和爾は尾張氏の流れというから、追い出されたというより尾張氏に飲み込まれた格好だったのかもしれない。

 現在の社殿は鉄筋コンクリート造で情緒はない。昭和63年に改築されたものだそうだ。
 社殿は南向きではなく南東を向いているから、そのとき狭い土地に押し込められてそうなったのかもしれない。かつてはもっと広い境内を持つ神社だったはずだ。



入り口鳥居




手水舎




番塀




拝殿




境内社




朝宮御殿の碑

 朝宮神社から少し離れた西側に、朝宮御殿の碑が建っている。
 鷹狩りに訪れる徳川義直のために休憩所として建てられた朝宮御殿の跡地を示すものだ。実際の御殿はもう少し西にあったらしい。
 義直はかなり行動範囲の広い殿様だったようで、名古屋城からここまでは直線距離で10キロ近く離れているし、よく訪れていたという定光寺は20キロも離れている。馬で往復40キロ以上というと、馬も人も疲れてしまうんじゃないだろうか。そもそも、そんなにしょっちゅう遠出していいほど江戸時代初期の名古屋城下は平和だったのだろうか。
 ちなみに、遺言によって義直の墓は定光寺に建てられた。よほど鷹狩りが好きだったのか、瀬戸の山奥の風情が気に入っていたのか。
 二代藩主の光友も朝宮神社は大事にして、社殿などを寄進している。社紋として三ツ葉葵紋を使っているのはその関係だ。
 
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