
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
世界の傍観者にこの世界の真実を写すことが果たしてできるのか? そんな自らの問いかけに自分自身、明確な答えを持てずにいた。でも、今はこう思っている。自分にしか捉えられない距離感があるではないか、と。
近づきすぎず、離れすぎず、自分の距離感でこの世界の有り様を捉えること。それしかできないけど、それができれば充分なのではないか。その結実が「名もなき風景の声を聞け」であり「a life」で、一定の評価を得られたことである種の確信を持つことができた。自分が思っていることや感じていること、自分が求めてきた写真は間違っていなかった。
道ばたに転がっている、音なき音、声なき声、歌なき歌を拾い集めて回っている。どうしてそんなものを撮っているのかと訊かれたら、他に誰も撮っていないからと答えるだろう。誰かが撮らなければ永久に失われてしまう光景を、私だけでも立ち止まって見て、撮って、見送ってあげなければいけないという変な使命感みたいなものがある。誰かが撮っているものは自分が撮るまでもないという思いもある。
自分以外に誰もいなくなってしまった街をうろつきながら、人が刻んだ痕跡を写して回っているような気分がある。
どこかにいるかもしれない誰かに向かって放つように。あるいは、次に訪れるかもしれない誰かに対して残すように。
自分の写真行為をそんなふうに感じている。
見知らぬ世界の絶景よりも、日々の日常のキラキラを大切にしたい。よりミニマムな世界観を提出すること。
自分はこの世界の真実を知っているんだというアピールのために写真を撮っているわけではない。世界の飢えた子供たちや、遠い国の戦争や、裏社会の姿や、正直そういうものに興味が持てない。少なくとも、私が撮るべき被写体だとは思わない。
もっと肯定的に、日々の暮らしの美しいところ、よいところを見つけて撮っていくことをしたい。
かつてよくこんなことを考えていた。生まれつき病気がちで学校にもなかなか行けず長く入院している10歳の女の子に、私たちが暮らしている世界のささやかな美しさや幸福を写真にして届けてあげる。自分の写真はそういうものでありたいと願っている。
今よりもっと明るいメッセージ性のある写真を撮らなければいけないと最近感じている。幸福の側の写真が必要だ。
その明るさの中に隠しきれない悲しみがにじみ出るとすれば、その方が物語をつむぐ方法論として正しいはずだ。
この世界の本質は悲しみにある。でも、悲しみは結論ではない。絶望が目的地ではないように。
悲しみから目をそらさず、悲しみを肯定すること。悲しみに共感し、悲しみを撮ること。そうして悲しみを最終結論とせず、愛おしさに昇華させること。それが私がやるべき写真だと考えている。
悲しみと喜びの鮮やかなコントラストを光と影で描き出すことができれば、そこに世界は写っている。それはときどき、ひどく残酷すぎる光景だけれど。
私が写真で目指している味わいは、ふわっ、ほろっ、しん、といったようなものだ。
見たときに心がふわっと軽くなり、ほろりとして切なく、ときどき、しんとした気持ちになるような写真がいい。
上手いだけ、きれいなだけの写真では心が動かない。気持ちをざわつかせてくれる写真を求めている。
究極は、笑って泣ける写真だ。
大きな写真でなくていい。小さな写真でもかまわない。写っているものがどれほどささやかなものだったとしても、大切なことの気づきがある写真でありたい。
私はこの世界に絶望している。心の深いふかい場所で。
けど、同時に人の営みを愛おしく思っている。そういう意味では、この世界に片思いしていると言えるかもしれない。
その思いが写真に表れてくれるといいのだけど。
誰にも求められず、誰にも褒められなくても、全力で撮ること。
仕事でもない、趣味でもない写真を撮ることは、自分のためではあるけれど、それだけではない。自分の写真が誰かのためであってほしいと願わなければ撮り続けることはできない。写真で人の役に立ちたいという願いは偽物ではないと信じている。
誰かに評価されるためではなく、誰かと共鳴し、共有するための写真でなければならない。人を感心させたり、驚かせたりする必要はない。
この世界に対して、もっと優しい気持ちでありたい。そのためには、素直な気持ちで世界と向き合わなければならない。
自分にとって写真の真実とは何なのかを、もう一度見つめ直している。
自分は黒子に徹することを心がけている。作家性などどうでもいい。そんなものは大切なことじゃない。大事なことは、被写体の心を鑑賞者の心に届ける橋渡しをすることだ。
自分が見ている世界を撮るためには、自分が関わってしまってはいけない。関わってしまえば、それはもはや自分が見ている世界ではなくなってしまう。見ている映画の中に自分が入り込んでしまうようなものだ。
だから私は世界の傍観者でいいのだ。この世界を写すために。
写した先に何があるのかは今はまだ考えまい。
シャッターを押すことにもはや迷いはない。
世界が私に向けて送ってくるサインに、ただ反応するだけだ。