
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
まず被写体がなければ写真は始まらない。写真以前に被写体はなく、写真とともに被写体は生まれた。絵におけるモデルと写真における被写体は別物だ。絵は無からでも生み出せるけど写真はそうはいかない。被写体は、撮られる対象であると同時に概念でもある。
さて、何を被写体にするか、それが問題だ。
とりあえず思いつく限り被写体となるものを挙げてみる。
四季で移り変わる風景、桜を代表とする季節の花。紅葉。山や川や海などの自然。湖や渓谷や滝。空や星景。虫などの生物。水中の生物たち。野生動物や野鳥。木や植物。
観光写真。国内なら京都、北海道、沖縄など特色のあるところから、東京、大阪、横浜、神戸、鎌倉など。世界各国の多様さ。
都会と郊外と田舎。旧街道の名残や高層ビル群、古い日本家屋。昭和の名残。神社仏閣や教会。城。旧跡。廃墟。
橋や高架道路やダムなどの建造物。
鉄道や飛行機や車、バイクなどの乗り物。レースや航空際。スポーツ。
イベントもの、祭り、花火、季節の風物詩。夜景。ステージ。結婚式。
食べ物や小物などのブツ撮り。インテリア。ペット。
人物ならスナップやポートレート。ヌード。
家族写真に記念写真、集合写真。
手法としてのドキュメンタリー。特殊な撮影方法としての空撮やダイビングによる海中写真。例外的な場所としての戦場など。
学校や病院、仕事場など、一般人が所属する場所でも通常カメラが入らない場所での撮影となるとやや特殊なものとなる。個人的な密着ドキュメンタリーなどもそうだ。
状況、日時、特別な出来事。
雨や雪、虹、雷などの気象。
あるいは心象風景。
特定の部分を切り出したラインやフォルム。色彩。抽象的な表現。
被写体というのは必ずしも写す対象そのものに限定されるわけではない。
ひとくちに空を撮るといっても、撮れる写真は多種多様で、それぞれ意味や目的は違っている。空を見ることと空を撮ることは根本的に違う行為だ。
何を撮っていいのか分からないという人がけっこういる。撮りたいものがないなら写真なんかやらなくてもいいではないかと切り捨ててしまうほど写真は単純なものではない。撮るものは分からなくても写真は撮りたいと思うならその思いは勘違いでも気のせいでもない。何を撮ったらいいのかは、写真をやる人間にとって根源的で永久的なテーマに違いない。プロの写真家でもそうだ。
まだ撮ったことがないものに挑戦してみるというのは、ひとつの解決方法だと思う。その中で自分のテーマと出会えるかもしれない。多くの人にとって、撮ったことがあるものよりもまだ撮ったことがないものの方が圧倒的に多いはずだ。
撮りたいものを撮りたいように撮っていいのがアマチュアの特権だ。プロのように制約はない。ただ、制約がないゆえに何を撮っていいか分からなくなってしまう面があるのは確かで、そういう場合は、以前にも書いたけど軸足を置く位置を決めてしまうという方法論を提案したい。自分のホームポジションを決めるように、何かひとつのテーマなり被写体なりに決めて、それを軸にしてしまう。その上で、もう一方の足を自由にどちらにも踏み出せるようにしておけば、撮影姿勢が決まりやすいし、写真に奥行きと広がりが出るように思う。迷ったときに戻っていけるホームがあれば心強い。それは撮影地でもいいし、自分なりのルールでもいい。
私が個人的にアドバイスを求められたとしたら、人を撮るようにすすめる。人を撮るアプローチ方法はそれぞれでいい。ポートレートのように人と対峙するだけが人を撮ることではない。撮る人がいなければ自分を撮るという手もある。絵画に自画像という分野があるように、写真はもっとセルフポートレートがあってもいい。
人を撮ることは簡単でもあり、難しくもある。被写体としての力が強いから誰でもある程度魅力的な写真が撮れる。けど、並み以上の写真を撮ろうとするととたんに難易度が上がる。人を撮ることにゴールはなく、人を撮ることを極めることは至難の業だ。だからこそ挑戦しがいがある。
撮りたいものが分からないとしたら、それは撮るものがないのではなく、自分のための被写体にまだ出会ってないだけだ。探しながら撮り、撮りながら探すしかない。