
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
シャッターを押すという行為の刹那に関していえば、それは反射だ。何かに触発されて撮れと脳が命令し、指がボタンを押す。
しかし、写真は反応がすべてかといえばもちろんそんなことはない。人は考えて撮っている。
大事なのはそこに至るまでの思いであり、積み重ねた時間だ。どれだけ考え、どれだけ思い、どれだけ見たかが写真に表れる。大げさに言えば、それまで培ってきた全思想の到達点とて写真は生み出される。
無限の時間と空間の中から一点を選んでくさびを打ち込むことが、適当や偶然であるはずがない。たとえ本人にその意識がなかったとしても。
写真と絵画の大きな違いのひとつに反射神経が必要かそうでないかがある。撮るべき対象に反応できなければ写真は生まれないし、押すべき瞬間にシャッターを押せなければいい写真にはならない。
優れた写真を撮るために必要な要素がいくつもある。思考力、知識、理論、技術、美意識、経験、肉体、想像力、お金、時間、人間性。写真はその人間の総合力が問われる表現方法だ。

いい写真の向こう側に何かがあると信じている。
写真は写っているものがすべてじゃない。

上手いけど心が動かない写真があり、下手だけど心が動く写真がある。
それでもやっぱり写真は技術が大事だと思うのだ。
理論の裏打ちのない感覚だけの写真は底が浅い。見る人が見れば簡単に見破られる。

チェホフは言った。「小説家は問題を解決する人間ではなく、問題を提起する人間だ」と。
私も自分の写真は結末的写真ではなく、見る人にとっての出発点であればと願っている。着地点ではあっても到達点ではない。
物語のすべてを語れるわけではないのだから、プロローグを提出するだけでいい。そこから先は見る人に委ねるしかない。だからこそ、想像力の広がる写真でなければならないとも思っている。
写真はある種のヒントであっても、答えではない。

大事なのは、作風ではなく世界観だ。イメージを追い求めるではなく、物語を見つけなければならない。
撮り手の思いを一方的に押しつけるのではなく、鑑賞者と共有することを考えるべきだ。
個人的な思想や経験をどうやって普遍に昇華させるか。そこが鍵となる。

準備8割。現場2割。
シャッターを押すのは、最後の仕上げの一筆でしかない。

被写体がこちらに向かってサインを送ってきている。
私たちはそれに気づき、受け止めるだけだ。
ゲットというよりキャッチと考えた方が写真は上手くいく。

写真をやる人間にとって運のよし悪しはけっこう重要なポイントだ。けど、偶然任せの幸運と必然が呼び込んだ強運は別のものだ。
たとえば、たまたま道を歩いていて虹を見つけて写真を撮ることができたら運がいいと思うだろう。けど、この場所で絶対虹を撮ると決めて、何年間も通ってようやく思い通りの虹を撮れたとしたら、それはもはや運がどうこうという問題ではなくなる。写真を見た人間が、運がいいねとしか思わないとしても。
花を撮っていて、ここに蝶でも飛んできてくれたらいい絵になるのにと思うことがある。そのシーンを撮るために何時間でも待ち、何日でも通うことができるかどうか。
写真における幸運とは結局そういうことなのだ。写真における幸運は天が与えてくれるものではなく、自分で掴まえるしかない。

写真の目的は自分探しなどではない。みうらじゅんの言葉を借りれば、「自分なくし」の方向へ向かうべきものなのだと思う。
自分は何を考えていて、どんな人間なのかを説明しなくても、言いたいことは写真が語ってくれる。
写真は自分の手で何も生み出さなくてもいい。すでにそこにあるものを撮るだけだ。自分自身を被写体に向けて同化してしまえばいい。
我をなくせばなくすほど、被写体が純化していくように思う。

私が写真を撮っているのは、この世界を肯定したいからだ。
言葉を換えれば、肯定したくてもできないから写真を撮っている。
美しいものや愛おしいものを撮って、それを誰かと共有することで今より少しだけでもこの世界を肯定できるようになりたい。
いつか、写真など撮る必要がなくなる日が来るだろうか。