
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
写真を始めて何年か経って少し撮れるようになったとき、まず思ったのは光を撮りたいということだった。
次に思ったのは風を撮りたい、だった。
ここ数年ずっと考えているのは、どうしたら時間を撮れるだろうということだ。平面的な写真空間に時間軸を持ち込めば奥行きが出るに違いない。
光は目に見える。風や時間は見えない。間接的に見えるといえば見えるけど、たとえば風に吹かれた草を撮るとか、時間が経って朽ちた家を撮るとか、そういう安易な表現では満足できない。
風や時間を撮らずに画面からそれを感じさせること、それが目下のところ一番のテーマとなっている。
光を写すことはそんなに難しくない。ただ、光を極めることはそれほど簡単ではない。光を読み、光を活かし、光を回し、光で描くこと。その際、感覚に頼ってしまうと、再現性が低くなる。きちんと計算して画面に光を回さなければならない。
単純に逆光で撮ればいいわけではないし、太陽光線を画面に入れさえすれば光を撮っていることになるわけでもない。その光は確かに効果的なのか、光で画面を演出できているかどうか、今一度自問自答する必要がある。
「風を撮れれば独り立ちだよ」と真島満秀さんは言った。あるいは、風は撮るものではなく感じさせるものなのかもしれない。この写真には風が吹いてるなと思うことがときどきある。けど、それを計算で撮れている人がどれくらいいるのだろう。
風を捉えたと感じることがごく稀にあっても、それがそのまま鑑賞者に伝わるかどうかは分からない。
風を撮ることと、風を感じさせること、それを撮り手と受け手が共有できたとして、その先に何があるのかは私自身もまだ見えてない部分だ。風を自由自在に撮れるようになるのはもう少し先になりそうだ。
時間を撮ることは光や風を撮るよりもずっと難しい。写真は一瞬を切り取るものだから、時間を写し込むというのは写真の性質と矛盾しているのかもしれない。けど、時間は写せるものだと私は信じている。それはまだぼんやりとした感覚でしかないのだけど、少しずつ確信に変わりつつある。一枚写真では難しくても、組写真や写真集なら確実にできるはずだ。
私の言う時間というのは、過去から現在に至るまでのことだけではない。今ここから未来へ向かう時間のことでもある。現在、過去、未来のすべてを撮れたとき、本当の意味で時間を撮れたということになる。
光と風と時間を同時に写し込んだ写真がこの先で撮れるだろうか。条件さえよればすぐにでも撮れそうな気がするのだけど、偶然頼みではなく狙って撮るとなると途方に暮れる。何をいつどんなふうに撮ればそんな写真になるのか、はっきりしたイメージは掴めていない。
長時間露光もひとつの回答ではあるとしても、そこがたどり着くべき答えではないように思う。
私たちは光も風も時間も知っている。知識としても、感覚としても。だからこそ、写真でそれが再現できるに違いないと思うのだ。
簡単にできてしまえば面白くない。いつか、やったぞ、ついに撮れたぞと小躍りする日が来ることを楽しみにしている。
光よ、風よ、時間よ。私とともにあれ。