
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm
名古屋市名東区陸前町にある明徳寺(みょうとくじ)は、下社城(しもやしろじょう)があった地とされ、柴田勝家生誕の場所と伝えられる。かつては尾張国愛知郡上社村と呼ばれていた。
当時、尾張国の中心地は清洲城のある清洲だった。直線距離にして両者は16キロほど離れている。
柴田勝家の出生に関してはあまりはっきりしたことが伝わっていない。尾張国守護の斯波氏の一族だったという話があり、一族の義勝が越後国の新発田の城主だったとき柴田を名乗るようになったという説が有力のようだけど、定かではない。勝家が生まれた年も1530年や1522年、1526年、1527年などいくつも説がある。信長の生まれが1534年だから、信長より年上だったことは確かだ。
ちなみに、尾張国の守護職は斯波氏で、織田家は守護代だった。更に言うと、信長の家系は主流の清洲織田家ではなく、庶流の織田家に過ぎなかった。そこから尾張を統一して、天下統一の一歩手前までいったのだから、かなりの成り上がりといえる。
勝家が下社城で生まれたという説も実はそれほどはっきり分かっているわけではない。父親が柴田勝義ということさえ資料に残っていないので、実際はここの生まれではなかった可能性もある。ただ、ここに下社城があって、廃城になったあと明徳寺が建てられたのは間違いなさそうだ。遺構は何も残っていないものの、地形などを見るといかにもこの場所に城があったであろうと思わせる。
お寺の周りの民家は柴田の表札だらけなので、一族の末裔の人たちかもしれない。

若い頃から武勇で鳴らし、信長の父・信秀の家臣として仕えていた勝家は、最初、信長の弟・信行(信勝とも)に味方して、信長に敵対していた。品行方正だった信行に対して、うつけと呼ばれる暴れん坊の信長を嫌っていたらしい。
信秀の死後(1551年)、家督争いになったとき、勝家は信行に付いて、林通勝らとともに信行を跡取りにしようと画策するも失敗。
1556年には信長に対して戦を起こすも(稲生の戦)敗北。
それ以降は信長を認め、信長の家臣となる。
桶狭間の戦いが起きるのは、その4年後、1560年のことだ。
信長体制の織田家では、重臣として重用され、数多くの戦に参戦して多くの武功を上げた。織田家の武人の中ではもっとも強かったうちのひとりと言って間違いないだろう。
何年か前、勝家最期の地となった福井県の北ノ庄址を訪ねた。そのときに勝家の後半生については書いた。
北ノ庄で散った勝家の名残はわずか
最期は悲劇的なストーリーとして語られることが多い勝家ではあるけれど、戦国時代の武人として見たとき、けっこう幸せな一生だったんじゃないかと思うのだ。本当のところどんな人だったのかは知りようがないけれど、平和な江戸時代にはあまり似合わない気がする。
勝家坂を登って明徳寺を訪ねる人が今でもいる。それはなかなかたいしたことではないか。









近所に歴史あり。小さな歴史の痕跡を拾い集めていく。
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