
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
上手さは必要最低限の条件でしかない。それ自体に意味や価値はない。大切なのは表現すべきものであり、伝えるべきことであり、共有すべき物語だ。技術はそのために使ってこそ意義がある。
テクニックというのは、これ見よがしに見せびらかして人を感心させるためのものではない。人を感動させるためにさりげなく使うものだ。いい作品を撮ることだけを目的とした写真は、人の心の深い部分に届くことはない。
写真と絵画は別物だ。けど、表現することの姿勢としては共通するものがある。写真をやる人間も、画家の心意気といったものに学ぶべき点は多い。
江戸時代中期、京都に生きた伊藤若冲という画家がいる。近年、若冲ブームといえるほど人気が高まっているから、一般の知名度も上がっているだろう。5月に東京都美術館で「生誕300年記念 若冲展」が開催されて、待ち時間が320分になったというニュースで知ったという人もいるかもしれない。
京都の青物問屋の長男として生まれた若冲は、父の死によって23歳で家業を継ぐことになるのだけど、商売よりも絵を描くことが好きで、40歳になると早々に隠居して弟に家督を譲り、絵の世界に没頭していくことになる。
本格的に絵を学び始めたのは30歳を過ぎてからといわれている。最初、狩野派に学ぶも飽きたらず、お寺に通い詰めて古い中国画を1000枚ほど模写したところでこれも違うと思い知る。かくなる上は実物を見てそれを捉えるしかないと思い至り、とにもかくにも観察することを始めた。自然の草花や生きものをひたすら見続け、庭に数十羽のニワトリを放し飼いにして、朝から晩まで観察し続けていたという。
そんな毎日を続けて一年、「ついに神気が見えた」のだと若冲は言う。すべての生きものに宿る生命力の核心といったものが若冲には見えるようになったらしい。その後の若冲は夢中で描きまくった。堰を切ったようにとはこのこととばかり、筆が勝手に動くとさえ感じたという。
そんな写生生活を続けること二年。若冲43歳のときに描き始めたのがのちの代表作のひとつとなる「動植綵絵(どうしょくさいえ)」のシリーズだった。ありとあらゆる植物や生きものたちを描いた30福の絵の完成に要した時間は10年。それを長いとするか、短いとするか。
同時代に京都で活躍した絵師に円山応挙がいる。応挙は弟子が千人もいたといわれるほど名の知れた絵師であり、いわば完全なるプロフェッショナルだ。それに対して若冲は師匠もいない、弟子もいない、正式に絵を学んでもない一匹狼のアマチュアだった。有力者のパトロンがいたわけでもなく(経済的支援は弟や親族だった)、誰かの注文で絵を描いていたわけでもない。描いた絵を相国寺などに寄進したといっても、頼まれたからというわけではない。言ってしまえば、アマチュアのおじいさん画家だ(江戸時代の感覚では40歳で初老で人生50年とされていた)。
しかし、若冲のすごいところは、それでも世間一般に知られ、評価されていたという点だ。当時の文化人録である『平安人物志』の中では、円山応挙に次いで二番目とされるほど評価が高かった。明治時代に入っていったん忘れられたような存在になるものの、大正、昭和と時代が進む中で見直され、再発見される形で評価が更に高まっている。アメリカ人収集家ジョー・プライス氏によるところも大きい。
「動稙綵絵」30幅は、明治に入って相国寺から皇室に渡り、現在も皇室所蔵となっている。東京都美術館では、相国寺所蔵の「釈迦三尊像」と「動稙綵絵」30幅が東京で初めて一斉に展示されるということであれほどの人が集まったのだった。
若冲は最後まで絵に没頭し、江戸時代としては異例ともいえる85歳まで生きた。晩年は天明の大火で家を焼かれて大坂に落ち延び、弟も死んでしまい、生活のために絵を描いて売っていたとされる。それでも、ついに本当の意味でプロの絵師にはならなかったように思う。偉大なるアマチュアリズム。それが若冲という人の本質だ。
ただ、アマチュアリズムというものを間違ってはいけない。素人芸と真のアマチュアリズムは違うものだ。徹頭徹尾、自らの欲するままに全力で何かを為すことがアマチュアリズムであって、それは単に金銭が絡まないとかいったことだけではなく、他人の評価や損得勘定を抜きにして、やむにやまれぬ思いから必然的にそうなってしまうということだ。自分で好き勝手にやりたいことをやるだけならただのお遊びでしかない。
若冲の場合は、寺や有力者からの依頼で絵を描くのでは自分が本当に描きたいものが描けないからプロにならなかったということだろう。アマとかプロとかを超越していたといった方がいいかもしれない。
流派にとらわれていないから、誰もやったことがない手法をいくつも生み出し、駆使することができた。若冲の絵に約束事はない。神気を絵として再現するためにどうやって描けばいいかを考え、工夫し、技術の限りを尽くしたことが、結果的に超絶技巧といわれる絵画として結実した。テクニックをひけらかすような気持ちはみじんもなかったはずだ。生命の本質を捉えることがすべてだった。
若冲の絵はぜひ実物を間近で見て欲しいと思う。高画質テレビでいくらクローズアップしても、そこから本当のことは伝わってこない。本物を直に見ると、これはやっぱりすごいものだと思わずにはいられない。絵画の知識など必要ない。自分の目で見れば分かることだから。
若冲は、当時としては最高級の画絹や絵具を惜しみなく使って描いた。それ故、200年以上経った現在でも、驚くほど鮮やかな色彩をとどめている。自分が描く絵に誇りと自信があったからだろうし、妥協することとは無縁の性格と、未来永劫自分の絵が変わらず存在し続けることを願ったからだろう。
商売には実が入らなかった若冲ではあったけど、遊びもせず、酒も飲まず、生涯妻もめとらなかったとされる。
写真をやる人間として若冲に学ぶべきところはたくさんある。見ることの大切さであり、取り組む姿勢であり、妥協せず最後までやり続けることといったことだけではなく、自分の仕事を後世に残すことを強く願う、その気持ちだ。
「千載具眼の徒を竢」(せんざいぐがんのとをまつ)という言葉を若冲は残した。自分の絵を理解してくれる人間を千年待つという意味だ。
誰も彼もが言える言葉ではない。それに値する仕事をした人間しか発してはいけない言葉だ。安易に言えばかえって自分が安っぽくなる。
100年後にも残る仕事なら、それなりに多くの人が思うことだろう。100年というのは、それほど非現実的な歳月ではない。けど、1000年となると話は別だ。私たちは1000年前に生きたの人のことを何人知っているだろう。1000年後の世界や、そこに生きる人たちのことをどれくらい想像できるか。
10年後のことも分からないけど、生きていれば10年なんてけっこうあっという間だ。このブログも10年以上続いている。ネットの世界が存続する限り、自分の写真も存続することになる。さて、自分の写真はこの先、何年生き続けることができるだろう。1000年後とまでは言わないまでも、せめて100年後の誰かの心に届けることができるだろうか。そんなことを思える一枚を撮らなければなと思うのだった。