
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
写真は好きなものを好きなように撮ればいい。下手でもなんでも、本人が満足できればそれでいいではないか。写真を楽しむことの自由について誰も制限したり非難したりすることはできない。
ただしそれは、家族や友人など身内に限ってなら、という話だ。不特定多数に向けて公に写真を発信するのなら、そうそう無責任ではいられないことを自覚しておく必要がある。友だち同士で集まってカラオケボックスで好きな歌を歌うのとは違う。あるいは写真サークルなどに入って仲間内だけでわいわい楽しく撮るというのはひとつのあり方だ。公に向けて発信しなければ罪はない。
たとえば、ネットに写真をアップして世界に向けて写真を発信するとき、PC画面の向こう側に誰がいて、どんなことを考え、何を求め、自分の写真がどう受け止められているのかを想像することはけっこう難しい。実際のところよく分からない。だからこそ、私たちは少し無責任になりすぎているのかもしれない。どう受け止められようが知ったこっちゃないという気分がどこかにあるのを否定できないのではないだろうか。
ネットに向けて何かを発信することが一定の責任を伴っているということをどれくらいの人が自覚しているだろう。お金を取っていないからといって何を出しても書いても自由というわけではない。オンラインであろうとオフラインであろうと、私たちは世界を形成する一員に違いない。何気なく投げた小石が誰かの頭に当たることもあるかもしれないし、それは自分にも跳ね返ってくる。世界に損失を与えれば何らかの代償を支払うことになる。
カメラがフィルムからデジタルに移り変わって15年以上が経った。主にプロ向けのデジタル一眼としてNIKON D1が登場したのが1999年。当時の定価は65万円だった。遅れてCanonがEOS D30を発売したのが翌2000年。定価は35万円で、どうにかアマチュアが趣味の範囲でも買えるようになった。2001年発売のEOS 1Dは定価が65万円。ようやく10万円台になったのが2003年のEOS Kiss デジタルで、発売価格は12万円ほどだった。
それでもデジタル一眼レフカメラで写真を撮ることはまだ一部の人間の趣味の範囲を超えず、デジカメ自体が一般に広く普及するようになるまでにはもう数年を要することになる。
私が初めてデジタル一眼を買ったのは2005年の愛・地球博の年だった。中古のEOS D30がいくらだったかよく覚えていない。5万円はしなかったような気がする。
その頃はどこへ行ってもまだまだデジタル一眼で写真を撮っている人は少なかった。本当に普及してきたなと感じたは2010年前後くらいだっただろうか。有名撮影地や観光地などでおばさま軍団が大きな一眼を抱えて撮っている姿は当初かなり新鮮に映った。カメラ女子などという言葉が一般的になり、ミラレース一眼を含めて老若男女誰もが当たり前のようにデジカメを持ち、写真を撮るようになったのは、まだここ数年のことだ。
その間、インターネットの高速化が進み、多くの人がネットの住人となり、ホームページやブログを持ち、SNSなどで自ら情報を発信するようになる。デジカメの進化、普及とネットの一般化の同時進行が現在の写真文化を形作ったことは間違いない。ネットの普及がなければカメラがフィルムであろうとデジタルであろうと、もっと閉ざされたものでしかなかったはずだ。
この間にどういう写真家がデビューして、アマチュア写真はどんな影響を受けて、写真はどのように変遷していったのかといったことについては、いずれ回を改めて書いてみたいと思う。今回は触れないでおく。
現在、私たち一般人は、情報なり、知識なり、物語なり、作品なりをただ一方的に受け取るだけの側ではなくなった。受け手であり同時に発信者にもなった。無名という安全地帯に身を置きながら。それは悪いことではない。いや、ある意味では悪いことでもある。
送り手、与え手になりたいという強烈な意志といったものが希薄になってしまったことが結果として全体的な作品の質を落とすことになっているからだ。かつては有名人、もしくはプロにならなければ自分の作品を世の中に出すことが難しかった。だからこそよい作品を生み出すために努力もしたし、必死にあがきもした。それが質の高い作品につながったということがある。言い方を換えると、かつては質の高い写真しか表に出ることを許されなかった。今は可能性や裾野は広がったけど、頂点は低くなってしまった。多様にはなったけど、写真の本質から遠ざかっているように感じる。
求める側も、本当に良いものに対する飢えや渇きが弱くなったことで、需要と供給のバランスが崩れてしまった部分がある。簡単に自ら発信できることでそれなりの満足感が得られてしまい、同時に求める作品の質も低いものになってしまったのではないだろうか。食べ物が溢れる飽食の時代といったものが、写真界にも起きている。
少し話がとりとめもなくなった。最初に戻すと、私たちは今一度、写真を発信するということについて内省する必要があるのではないかということが言いたかったのだ。日常の報告といったようなものではなく、もっと高品質の写真作品を提供する義務があるのではないかと。
誰でも発信できるから自分ひとりの責任は軽いように感じているけど、本当はそうじゃない。プロであるとアマチュアであるとに関わらず、写真家のひとりとして発信する写真の質を更に高めていく努力をすべきだと私は思う。自戒を込めて。
誰でも写真を撮れる今だからこそ、自分にしか撮れない写真を持っていることに価値が生まれる。独りよがりではなく、自分勝手でもない、共有、共感を目指し、写真によって今より少しだけでも豊かで、幸せな関係性を築くことができると信じたい。
良い意味でも悪い意味でも、もはや写真を個人的な趣味として楽しんでいられる季節は終わった。デジタル写真、ネット時代のキーワードは共有だ。写真は送り手が受け手に向けて与える一方通行のものではなくなった。
日々無数の写真がネットの海にあふれかえるようになった今、もう一度写真のあり方について真剣に考える時期にきているのではないか。次の10年、20年に向けて。