写真ノート<16> ---好きな写真集(1)

写真ノート(Photo note)
川村倫子うたたね

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 川内倫子のファースト写真集『うたたね』は一番好きな写真集ではないけれど、一番影響を受けた写真集といえばこれになる。
 写真集というと、ひとつのテーマを決めてそれに沿った内容の写真を撮って一冊にまとめたものという固定観念を打ち砕いてくれた。写真ってこんなに自由でいいんだと目が覚めるような思いがした。私のブック「名もなき風景の声を聞け」は、この写真集との出会いがなければ違うものとなっていただろう。
 一見するととりとめのないバラバラな写真が無造作に並べられているように見える。しかし、実際は生と死という重たいテーマを緻密な計算で構築している。多分に感覚的なものかもしれないけれど。
 古い二眼レフのローライフレックスで撮られたハイキーな写真の表面的な軽やかさにだまされてはいけない。誰でも撮れそうで誰も撮れないのが川内倫子の写真だ。彼女の写真に触発されてローライフレックスを手に入れたなんて人もけっこういたんじゃないだろうか。当然ながら二眼レフで撮れば誰でもあのような写真が撮れるわけではない。
 難しいことはともかくとして、ぱらぱらと眺めているだけでも心がふわっとする写真集でもある。ときどき、どきっとしたり、しんとなる。
 川内倫子の写真集はその後も全部見ているけど、どれもファースト写真集を超えてられていないように思う。太宰治は「作家は処女作に向かって成熟していくしかないのだ」と語ったけど、写真家にも同じことが言えるのかもしれない。

 
 

うたたね [ 川内倫子 ]
価格:3240円(税込、送料無料)








 

青い光 [ 小野啓 ]
価格:2160円(税込、送料無料)



 制服を着た男女の高校生たちを正面から撮影したものを一冊にまとめた小野啓の『青い光』。
 なんのてらいも作為もなく撮っているように見えるけど、もちろんそんなことはない。小野啓がいつも高校生たちに指示しているのは、笑わないでということだそうだ。笑ってもない、はしゃいでもいない、おしゃべりもしていない、嬉しそうでも、悲しそうでもない、ただ普通に立っているただの高校生たち。そんなものを撮って並べて一冊にして面白いものができるのかと思うけど、これがとても素敵な写真集に仕上がっているのだ。
 記念写真と作品の違いとは何なのかと、あらためて考える。
 一番好きな写真集は何ですかと訊かれたら、たぶんこれを挙げる。自分が撮りたい写真ではないし、決して撮れない写真でもあるのに、この写真集は好きだ。ほとんど例外的に。
 何故この写真集が好きなのかと問われると、ちょっと考え込んでしまう。写っている高校生たちが特別輝いているとか魅力的だとかではない。写真的に優れているのかというとそれほどでもない。ひとつは、デジタルではなくフィルムのよさというのもある。撮り手である小野啓の映し鏡のようでもあり、そうではないようでもある。
 高校生特有のあやうさや若さから来るゆらぎのようなものが写し込められているからということになるだろうか。それは被写体の魅力というよりも小野啓の手柄に他ならない。
 その後も小野啓は同じ路線、同じ手法で写真を撮り続けている。ただ、続編的な位置づけの『NEW TEXT』はもう一歩だった。『青い光』で帯びていた淡い燐光のようなものが消えてしまっていた。
 写真集は音楽でいうところのアルバムに似ている。ヒット曲を集めたベスト盤が必ずしもよくないように、写真集には写真集ならではの写真の並べ方というものがある。撮った写真の中からできのいいものを50枚なり100枚なり並べてもいい写真集はできない。量の問題もあるし、流れやテンポ、リズムといったものが重要となる。

 




 

 高橋ジュンコという写真家は、一般的にはあまり知られていないかもしれない。写真集『スクールデイズ』をどういうきっかけで知ったのだったか、私自身忘れてしまった。何かのきっかけで買って見てみたら好みに合ったとだけ覚えている。写真集はたいてい図書館で借りるか、買ってもほとんど売ってしまうのだけど、手元に残しておきたいと思える数少ない中の一冊だ。手に入れたのは、確か小野啓の『青い光』のすぐあとくらいだったと思う。
 同じように高校生を撮った2つの写真集ではあるけれど、内容も受ける印象もまったく違っている。『青い光』は部外者が校外で撮ったものに対して、『スクールデイズ』は当事者が校内で撮っている。高橋ジュンコは教師として高校生たちとともに過ごしながら彼らの日常を切り取っていった。高校生活が遠い日の出来事となった私でも、あの頃の感覚がよみがえる。必ずしも甘いだけの記憶ではない。ほろ苦さや甘酸っぱさのようなものがこみ上げてくる。
 写真が上手いわけではない。ちょっとアマチュアっぽくもある。でも、この写真集に関してはそれがかえって功を奏している。あまり上手にきっちり撮ってしまうと、かえって作り物くさくなる。
 高橋ジュンコがその後どういった写真活動をしているのかはよく知らない。これ以外の写真集も見てみたいと思うのだけど、見つからないところを見ると出していないのかもしれない。小野啓の『青い光』とあわせて見てみるといろいろ感じることがあると思う。




 

うめめ [ 梅佳代 ]
価格:1944円(税込、送料無料)



 ちょっと有名になりすぎてしまった感のある梅佳代の写真集を今更紹介するのもなんだけど、一応はひとこと触れておきたい。
 梅佳代の写真は面白い。たぶん、誰も梅佳代のようには撮れない。それは梅佳代が悪魔的だからだ。彼女自身、どこかのインタビューで答えていた。自分は撮る瞬間、鬼になる、と。
 梅佳代は被写体の気持ちなど考えない。普通の人は何か決定的なシャッターチャンスに遭遇したとき、これは撮っていい場面か撮るとまずいのか一瞬でも迷う。あ、面白いシーン、と思っても、人に向けてカメラを向けてシャッターを押すことは難しいものだ。梅佳代にはそういう迷いというものが一切ない。ほとんど動物的な本能で反応してちゅうちょなく撮る。
 雑誌の記者が梅佳代の撮影に同行しているとき、あきらかにその筋と分かる人に向けて梅佳代は正面からシャッターを切った。すれ違ってから記者が、今の大丈夫でしたかと訊ねると、「撮るのが当たり前という態度でいればなんてことない」と梅佳代は答えた。大部分の人はそんなふうには撮れない。彼女はどこか回路が壊れている。だからこそ、ああいった写真が撮れるのだ。もちろん、梅佳代は確信犯だ。川内倫子との対談で、川内倫子が「あんた、自分が撮ってる写真がどれだけ怖いか分かってる?」と訪ねると、「はい、分かってますよ」とあっけらかんと返していた。やはり、底が抜けている。
 被写体の気持ちを無視したような写真を私は撮りたくないし、撮ることもできない。梅佳代の写真は好きでもあり、嫌いでもある。身内を撮った『じいちゃんさま』や『のと』なんかは好きだ。
 梅佳代もまた、ファースト写真集『うめめ』を超えることは難しいだろう。でも、そんなことはおかまいなしにどんどん突っ走っていってしまうのが梅佳代というキャラクターのように思う。自分は写真家として立派な仕事を残さなくてはいけないなどといった使命感とは縁がなさそうだ。面白ければそれでいいじゃんといったところだろうか。
 梅佳代的な写真は昔からあったし、梅佳代以降も亜流はたくさん出ているけど、誰も本家は超えられない。人はあれこれいうけど、オリジナルというのは強いのだ。

 

 写真ノートの中で、これからも好きな写真集やおすすめの写真集について紹介していきたいと思っている。今回はその中のほんの一部だ。
 写真集は高いので、欲しいものを全部買っていては大変だ。古本を買うか、図書館で借りることをおすすめしたい。最近の図書館はネット予約できるところも増えて便利になっている。
 写真集をたくさん見ることが写真上達の一番の早道だと私は思っている。優れた写真をたくさん見ることで目が肥えるというだけでなく、一冊にまとめられた写真集であることが重要で、見ていくうちに写真の呼吸というか勘所みたいなものを会得できるからだ。
 教わるのではなく、見て盗むことだ。古くさい方法論だとしても、写真に関してはそれしかないような気がする。
 

 
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