写真ノート<12> ---大切なのは被写体の心

写真ノート(Photo note)
夕どき散歩

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 大切なのは撮り手の心ではなく被写体の心。写すべきものは自分の心情などではなく写される側の気持ちだ。
 写真はある場面のある瞬間を切り取ることで成立するものだから撮り手の意図というのは必ず表れる。主観から逃れることはできない。けど、たとえそうだとしても、できる限り自分は黒子に徹したいと思っている。写真の主役は撮り手である自分ではなく、あくまでも被写体だというのが私の考え方だ。
 自分は被写体と鑑賞者の間に立って橋渡しをするのが役目だと思っている。そのためには、自分というフィルターは無色透明であることが望ましい。色つきフィルターを通すことで目の前の風景を自分勝手に作りかえたくない。
 撮られた瞬間の視点は自分のものでも、できるだけ自分の気配を消し、できることならば自分不在であることが理想だ。鑑賞者が被写体と直接つながれるように。
 作家性などというものはどうでもいいのだ。

 被写体と向き合わないことを心がけている。被写体の心を写すには、被写体と対峙してはいけない。被写体に近づき、寄り添い、叶うならば同化し、被写体が見ている光景を被写体と一緒に写し取りたい。
 いつも自分自身に問いかけている。被写体の声なき声に耳を傾けているか。被写体の声がちゃんと聞こえているのかと。それは風景であっても植物であっても人間が作った人工のものでも同じだ。被写体が発しているメッセージを受け取らなければ被写体の心など写せるはずもない。チューニングを合わせて、心を通わせなければならない。
 被写体は自分自身の映し鏡だ。撮り手が自ら語らなくても被写体が語ってくれる。被写体が語ろうとする以上のことを語ろうとすれば、鑑賞者は自ら耳を傾けることをやめてしまうだろう。
 写真を撮るという行為は本来的に自己表現といったものではない。言うなれば他者表現といったようなものだ。自分がいて被写体があるのではない。被写体があって自分がいるのだ。
 写真を撮る対象は、自分の持ち駒や小道具といったものなどでは決してない。心を持った存在であり、その心を写すことだけが必要なのだということを忘れてはいけない。

 被写体の声を拾い集めた先に何があるのか。
 自己表現ではない表現とは何なのか。
 それは、私自身この先ずっと自問自答していく問題で、答えは出ないのかもしれない。
 私は写真を始めたときから今に至るまで、写真的に優れた作品を撮ることを必ずしも目標としてこなかった。かつてこんな表現をしたことがある。
 何故写真を撮るのかという問いに対する答えとして、この世界を肯定するための証拠を拾い集めるためだと。今の私には、世界を肯定するために言葉と写真の両方が必要だと感じている。言い方を変えるなら、言葉と写真さえあれば世界を肯定できるのではないかと。
 写真行為が主観的なものである以上、自分の感情が写真の中に漏れ出してしまうことは避けられない。もしそうであるならば、それはこの世界を愛おしいと思う感情でありたい。
 片思いと分かっている愛の告白のような。
 
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